いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『自由からの逃走』を読み終える

『自由からの逃走』(著:エーリッヒ・フロム 訳:日高六郎)を読み終える。
名著だけど読んだことがなかったので、意識が向いたタイミングで開いてみる。
 
自由から逃げる。なんだか不思議な表現だけど、この"自由"がなにを指しているのか、どうして"逃げる"のか、逃げるとどうなるのかを感じながら読み進めていくと、著者の過ごす時代背景や立場と絡めて説得力のあるものとなる。
社会心理学の泰斗ということで、中盤以降にある人間の心理の緻密な言語化は、ただただ瞠目するばかり。意味や論旨がわかりにくいということもほとんど無かった。
 
自由や幸福の問題について述べられている本であり、それに関する意見は余所に凡百あるので、ここでは自分に関することを中心に記す。
 
およそ不完全ながら偽りの人格を育てることで、金銭面で安定した生活をしていたところ、進むべき道がだんだんと狭窄していくことを知りながら、まあなんとかなるだろうと見ないふりしていたらついには踏み外してしまい、今に至る。結果、生活費の工面がロクにできなくなった代わりに、いったいなんの意味や意図があるのかわからないことをさせられたり、会う人に諂ったり迎合したりする場面がなくなり、かなりニッチで局所的にはなるものの自分が良いと思うものを自身の能力に合わせて自分のペースで世に放つことに注力できている。
よって積極的な理由ではないにしろ、寄り掛かっていたものから離れることになり、著者のいう「自発性」を持って過ごすことになった。というか、状況からそうせざるを得なくなった。
われわれは、近代人が自分の利益によって動いていると信じながら、しかも実際には、かれの生活を、自分のものではない目的に捧げているという、あの矛盾におちこんでいたのである。
(p.133)
おカネはないのに、収入があったころよりも精神的にはかつてないほど気楽で安定しているのである。ひょんなことから始めて今や毎日なにかしら手をつけているスピーカーの整備は、生活するうえで矛盾がかぎりなく小さいのだろうと思う。
積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。
(p.284)
皮肉なことに、体調を崩すことで自立的な自由に気づき、経験し、順応していくことになったのだろう。まあ、依然として鬱の症状は抜けていないのだけど。
 
いっぽう、人は孤独を恐れるものという認識が、自分には希薄なこともある。正確に言えば恐れないわけではない。やはり「孤独」や「無力感」というものは避けようとする。だけど先述のとおり、パーソナリティーの面から見て、自分はどちらかというと、大勢が認識する大きな物語から逃れることで助かった人間だ。人を知るほど、人と関わるほど、社会に馴染もうとするほど孤独や無力感を感じていた側なのだ。社会から離れることは、それらからも離れることになる。
「匿名の権威」から解放されたことは前提としてもちろん大きいのだけど、ある空間に誰とも接触せず独りでいることが原則的に平気で無理のないことが、別の権威にすがろうとしない要因であると思っている。先日読んだ「ドーパミン中毒」でも感じたとおり、自分の外にあるものに対して極端と言えるほど興味を持てない閉塞した性格が、逆に良いほうに働いていることもあるのだという認識だ。
 
デモクラシーの先を見据えた著者が「民主主義的社会主義」と呼んだ理想には、現状届きそうもない。見渡すかぎり、近ごろはむしろ社会主義の色が濃くなっているような気もする。
浅学の自分には今の社会や政治の仕組みに対してかこち言をつぶやくことはできない。しかしまあ、16世紀のプロテスタンティズムみたいなものに立ち戻ったりなんかしたら確実に生きていけないだろうな、とは思うから、民主主義には泰然と構えていてほしいというのが率直な気持ちだ。
 
終。