いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『ドーパミン中毒』を読み終える

ドーパミン中毒』(著:アンナ・レンブケ 訳:恩蔵絢子)を読み終える。
ドーパミン、中毒は勘弁だとしても、むしろ自分はもっと出てきてほしいくらいだよな、と思いながら手に取った本。
 
依存症に抗う手段として後半から語られていく、"苦痛や不安から逃げるな、受け入れろ"というのは、鬱病と診断されてからしばらく経つ自分の感覚としても納得できるものだ。
薬を使う以外にもっと上手くいく方法がある。苦痛を受け入れる、という方法だ。
(p.186)
抗うつ薬は、一時期いくつか服用した。依存性のある薬も飲んだ。というか、薬というものは大なり小なり依存性が付きものなのだそう。
だけどしばらくするとどれも効かなくなって、副作用の影響のほうが気になって止めてしまった。
結局そのあとも投薬したりしなかったりしながら、今はごく稀に睡眠薬を処方してもらうくらいで落ち着いている。振り返れば、薬物療法よりもまず、体調が変質する原因となった仕事場から自身が完全に切り離されたことが大きかったんだろうな、と思っている。
 
それまで生活の大半を過ごした場所から離れ自由になった期間、この本で例示されている○○依存症患者のような状態にはならずに済んだ。……済んだと思っている。酷いときの状態の記憶はほとんど残っていないから、自信をもってそうだとは言えない。程度の問題になるのだろうけど、職を失ったことを除けば、まあ、生活がただちに破綻するほど夢中になれるものとは邂逅しなかったのだろう。引っこみ思案な性格が功を奏したとも言える。
ともかく、おそらくこれは、ドーパミンがガシガシ増やされるような環境にいなかったことが大きいと思うけれど、依存性のある薬を断ってもたいして苦にならなかったことから、自分の体質が良くも悪くも外的要因に振り回されにくいものであることもそれなりに占めていると感じている。
 
別に、鬱病であることを積極的に受け入れようとしていたわけではない。部屋で引き籠ったり普段行かないような場所に散歩したりして、一日ほぼ誰にも会うことなく独りで過ごしていくうちに自然と感得したことだ。自分の内面と向き合う時間がそれまでよりも大幅に増えた結果のひとつだろう。
併せて、あまり鬱病であることに自覚的でなかったこともあって、症状から逃れるためになにかにすがりたいと思うことが無かった。こういうもんなんだな、鬱病ならこういうこともあるのだろう、いやでも、こんなのは以前からあったぞ、くらいの感じ。今もそうだ。
よって、著者が臨床の現場で知り得たようなドラマチックなことは欠片も無い。といっても、本書に挙げているのは極端な例なんだろうけど。
 
どうしようもないのだ。自分は「降りてくる」と表現しているなんの前触れもなく現れる深い悲しみや、眩暈。来るときは来るもんだ。ああ、また来たか、くらいに受け止める。
そうなれば、できることはひとつ。動けなくなろうが何だろうが、その場でただやり過ごすしかない。
仕方がないじゃないか。間違いなく苦痛だけど、自分はそういう生まれなんだ。
それよりも喫緊の課題は、この状態でどうやって生きていくのか、要はどうやって生活資金を得ていくのか、だ。
鬱でいることそれ自体は、じつはさほど問題ではない。鬱のままでは生きられないことが問題なのだ。
 
食べ物やらセックスやら、脳内麻薬やそれに似たものが諸々を解決してくれるというのなら、自分は喜んで受け入れるだろう。しかし、さしあたり、そうはなっていない。どこを見渡しても、この先の未来もその兆しは無い。
快楽で死ぬか。赤貧で死ぬか。あるいはどちらのほうが生き長らえる確率が高いだろうか。
 
人間が生きるうえで不可欠なものとしてドーパミンが存在するのなら、だれか、ひとつまみだけでもいいから、自分の頭の上から定期的に振りかけてはもらえないだろうか。
自分がときどきパソコンでゲームをしたくなるのは、おそらくこの「ドーパミンのふりかけ」を貰えるからだろう。
現代人は依存症になりやすくなっているが、それはドラッグが人間にまだ身体があることを思い出させるからではないか、と私は思うことがある。
(p.204)
しかしそれも、最近は中毒と呼べるほどのめりこむことがなくなっている。最後にカタルシスが起きたのはいつだろうか。そもそも、気落ちしているときにゲームをしようとはならないしな。現実逃避にはなっているけど……。
 
自分に当てはめながら読み進めていくと、ドーパミンを増やせないことをドーパミンのせいにするという、意味不明な思考になっていく。そして、このトートロジーをどうにもできないので諦める。
神経伝達物質のせいにしても悲観するだけでそれこそ無意味なので、そういうこともあるんだな、くらいの認識で生活をやっていくしかない。
 
終。