いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』を読み終える

『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(著:印南敦史)を読み終える。
けっこう前に買っておいて部屋の隅でひっくり返っていた本。長時間の電車移動をする機会ができたので、携行していった。
 
明らかに"遅読"の傾向にある自分が、このテの本を読んでいつも思うのだけど、やっぱり自分の知りたいこととは肌合いの違うことが書かれている。
 
「遅いなら読み飛ばしちゃえばいいじゃない」
「速く読める本を選ぼう」
 
そうじゃないんだ。
本を読むスピードを上げたいのであって、本の大まかな内容を知って「ハイ読了」「一日一冊読破したぞヤッター」みたいな気持ちに持っていきたいわけではない。
 
たしかにそれは「術」としてはアリだと思う。なにか調べ物をするために参考書をパラパラ開いて"アタリ"をつける方法。それは知りたいことを知るための術のひとつであって、イメージとしてはザッピングに近い。とにかく数をこなしたいとなれば有効だろう。
でもそれだと、本を読んだ気にはならない。この本を読んだのだ、という意識にならないし、言うことも憚られる。
そうではなく、もっと単純に、本義とするところの、目の前に書かれていることを読み上げる速度を上げたいのだ。そこに書かれていることが無駄か冗長か、とか、気になった一文を掬い上げる、とか、それらはひとまず置いておいて。そういうメソッドに連なっていく一元の機軸。素地の部分。その能力を底上げするにはどうしたらいいのか。そんなことは可能なのか。そこが知りたい。
 
だいたい、読み飛ばすかどうかの判断だって、あからさまに章や段として区切られているわけでもないかぎりは、ある程度文章を読み下して実質的な意味合いとか含蓄を理解していかないとできないんじゃないの? 自分自身がそういうことが可能な本を読めていないだけなのかもしれないけれど。
 
終。