いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『「読む」技術 速読・精読・味読の力をつける』を読み終える

『「読む」技術 速読・精読・味読の力をつける』(著:石黒圭)を読み終える。
文章の"読みかた"に関するテクニック集。
副題にある「速読」「精読」「味読」を著者は「読解ストラテジー」と呼び、読みかたの大別であるとする。本文ではそこからさらに「○○ストラテジー」という区分けをして、それぞれ例文と解釈の例を挙げながら解説している。
ストラテジー(戦略)と称するとなんだか仰々しいけれど、要はカテゴライズのことである。
 
自分は、本を読むスピードがめっぽう遅い。昔からそうだ。しかも体調がよほど良いときでないと長時間集中して読み進めることもできず、とにかく書籍一冊を手元に携えている時間が長い。それゆえ、終盤まで読み進めるころには前半の内容をさっぱり忘れていることもしばしばある。読み終えるころには「で、結局、これはなんの本なんだっけ?」となったりする。
一冊の本から得られることは時間がかかる割に少ない。これがとても残念で、興味のある本を見つけてもなかなか手が出ず、そのまま存在を忘れてしまうこともよくある。
飽きっぽい性格も影響している。特定の書籍を手に取ってみたときの熱量のまま、憑りつかれたように我を忘れて一気に読み下すことができたらどんなにいいか。
 
自分の読みかたは、この書籍でいうところの「精読」である。なかでも、書いてあることをいちいち咀嚼し、自分の脳みそに蓄えられる形で理解しながら読み進める「記憶ストラテジー」を採っており、それをあらゆる文章に対して常に実施している感がある。
一字一句逃しはしまいと、隅から隅まで目を通し、汲み取る。常にそんなことをしていれば楽しくもないし、エネルギーがソッコーで尽きるのも当然である。
語彙力や文法力を駆使して、文字列から地道に意味を見いだしていくボトムアップ処理
(p.32)
なにか意味ありげな文字の羅列に出会うと、まさにこのボトムアップ処理が自動的に働くようになっているのである。
 
そうなれば、「速読」と呼ばれるものを極めるのが現実的である気がする。短時間でザクザク読んでいくことができれば、先述の課題はおおかたクリアできちゃうんじゃないか。
でも、わかってはいても、速読をしたいと思うことはあまりない。
 
なぜそうなのかというと、ひとつは大意を把握する読みかたをするのは不誠実に感じるからである。
これは自分のポリシーなんだけど、あるコンテンツに対して、享受する側はそれをじっくり吟味したり自分の血肉とすることで誠意を示せる、と考えているところがある。「話の大枠が頭に入ればいいや」というのは、それを前提とするものならわかるけど、少なくとも製作者である誰かの時間=命を削って生まれたものに対峙したとき、上辺を撫でるだけになるのはモヤっとする。
 
もうひとつは、「なるべくフラットに向き合いたい」というのがある。
本書籍では、速読の技術の一例として「スキーマ」という考えかたを紹介している。これ自体は一般的だけど、文章を読むにあたっては、
その人がすでに持っている知識の枠組みを用いて、与えられた文章の意味を理解し、再構成している
(p.59)
だろうという。
自分は読書をするとき、これをなるべく排除することを心掛けている。自分自身の知識の蓄積を、あまり信用していないためだ。得られた知識自体が真かどうかもわからないし、一度理解したことでも時間が経過すると無意識のうちに変容している場合がある。それを引用して読み進めると、正しい理解を得られない可能性があると考える。
基本的に、本に書かれていることは正しい、と信用しながら読んでいるけれど、自分の知識や経験と結びつけるのは慎重になっている。先のボトムアップ処理の反対、
何の話題かを見ぬき、その話題にかんする知識や経験などの記憶に引きつけて読むトップダウン処理
(p.32)
これができないのだ。
 
ハードカバー一冊をひと月以上かけて読んだりすることがザラなのは、そんなおバカな拘りが根底にあるためである。
繰り返しになるけど、こんなことをしていれば疲れるし、時間の無駄だし、続かないのは当たり前だ。それでもあえてこの方法で読み進めようとする自分は、読書に向いていないんだろうと思う。
 
この本を読んでみて、なんとも非効率な読みかたをしているもんだなと再認識した。その能力もないのに穿った見かたをしようとする姿勢は、いい加減止めにしたほうがいいのかもしれない。それでも最近は固執しなくなってきて、ちょっとずつ流し読みもするようになってきたけれど。
 
終。