いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『孤独のレッスン』を読み終える

『孤独のレッスン』(著:齋藤孝中条省平奥本大三郎南條竹則、鈴木雅生、岸見一郎、新元良一、適菜収、下重暁子岸惠子田中慎弥、高村友也、林望荒木飛呂彦、石戸諭、吉川浩満角幡唯介)を読み終える。
孤独に関するエッセイ集。
孤独でいることの本質に迫るものから、ファッション感覚の大味のものまで、玉石混交。
 
自分は、独りでいることをこの上なく好むけれど、孤独が怖くないわけではないのだなということに気づく。
 
自分が孤独を感じるのは、誰かと空間を共にしているときである。その場の人数の多寡にかかわらず、ふとした瞬間、急に周りとの距離が開き、取り残されたような感覚になる。
対して、その現象は、単独で過ごしているぶんにはいっさい発現しない。独りでいるのが当たり前の状況だと、むしろ孤独を実感しないのである。
誰かと一緒にいるときに孤立を明確に突きつけられる実感は、他者に話してもなかなか理解されないというのが自分の感覚としてある。どうも大方は、独りでいること=孤独と解されているようなのだ。
 
その心理について、今までは独りでいることに耐えられない人種と平気な人種に分けられて、自分は後者側なのだ、と勝手に思っていた。しかし、平気だと思いながら孤立しようとするのは、先述のとおり孤独を実感する場面が人と異なるからにすぎず、結局のところ孤独をさけていることになるのだった。
こうして文字に起こしてみるとトートロジーみたいで、理解されないのも致しかたなしとも思うのだけれど、
「独りになるのは怖い。だけど、そもそも世界に自分以外誰もいなかったら、孤独もなにもないでしょ」
と書くと、大意としてはわかりやすいだろうか。
 
この本で取り上げられている孤独は、アプローチは各々異なるけれど、ほとんどのチャプターで「世間から孤立した人物」を中心に論を展開している。読んでいると、なかには孤独な人物とされるわりには他者とけっこう関わっていたりもして、本当に孤独だったんか? と訝しむ物語もあるにはある。
しかし、先のとおり、俗世と密接に関わるからこそ実体となる孤独があることを知っていれば、わりとすんなり読める気がしなくもない。
 
他方、一人称視点で語られる孤独もある。読んでいて面白いのはこちらだ。
身ひとつで行動することでなにが起こるか、そもそもそんなことが可能なのか、そのエッセンスが透徹に綴られる。実在の孤独とでもいうべきか。
そういった賢人の語り口から察するに、おそらく人は、真に孤独で生き抜くことは不可能なのだろうと思わざるを得ない。これまで築き上げてきた人類の文化をかなぐり捨てて隠逸を謳歌できるのか、興味は尽きないところではあるのだけど、そもそもの話、この世に自力で生まれて来られない時点で現代社会から隠遁するなんざあり得ない、という認識に行き着いてしまうのである。
 
さりとて、これに関しては薄々気づいてもいた。独りで居ることはできても、孤独の悦に浸るところ止まりとなる。今の自分のように。孤独に生きるのは困難極まりない。完全無欠の狂人だったとしても、やっぱり難しい気がする。
それを裏づけるかのごとく、現実がここにまとめられていることが、残念でならない。
 
この本の帯には、"孤独をいかに愉しむか?"とある。ただ、本文内にそのヒントたり得るものがあったのかどうかは、読み終えた今でもよくわからない。愉しむものでもないとも思う。
でも、たとえ自身が生きる上での本質であったとしても、孤独は、愉しめる範ちゅうのものでなければならないことはわかる。
じつはファッションで十分だったりするのかもしれない。
 
終。