いつか消える文章

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『エネルギーをめぐる旅 文明の歴史と私たちの未来』を読み終える

『エネルギーをめぐる旅 文明の歴史と私たちの未来』(著:古舘恒介)を読み終える。
エネルギーと人の歴史、そもそも「エネルギー」とはなんぞや、人間社会とエネルギーの結びつき、そしてエネルギーの未来について、明るく広角なレンズのカメラでバシっと捉えたような画角の広さで綴られた本。
 
とにかく様々な方角からエネルギーについて切りこんでいるなか、人間がどうしてエネルギーを必要とするのか、なぜ"問題"として捉えなくてはならないのかという根源的なものとして、本書中盤で取り上げられている「散逸構造」があるように思えた。
 
極端な言いかたをすれば結局のところ、人間という特定の秩序がエネルギーから生まれたことがすべての発端であって、誕生の時点で人間は未来永劫エネルギーを必要とすることが運命づけられていたのである。人類種の進化の過程で頭でっかちになってきたのもエネルギーの消費があったからだし、それに気づいて宗教やら機械やら文明やらが生まれてきた。生命活動を含めなにをしようにもエネルギーありき、いわばエネルギーの奴隷でいなければ生きていけないのは、つまるところそもそもエネルギーを食い続けていなければならないような構造物として生まれてしまったことが要因だった。
だからエネルギーへの隷従からの脱却は不可能で、そんなふうにはできていない。昨今叫ばれる「持続可能な社会」とこれまで連綿と続けてきた「人類社会の発展」の両者は、ますます相対するものとしてにらみ合い、高コントラストを放つことになる。
 
著者の論ずるとおり、技術革新による解決を待つのではなく、まずは哲学的な視点において社会を捉え直す必要がある。とはいっても、なにしろエネルギーという名の食物を膨大に摂取していないと死に絶えるようにプログラムされた秩序であるがゆえ、人間の脳内で意図的だろうが恣意的だろうが考えかたを変えたところでどうにかなるものでもない。それができたら苦労はない、というヤツだ。
でも、我々には現状それくらいしかできることがない、というのもわかる。「大量消費をしない」のは正しいどころか、単なるベースラインに過ぎないのだ。
 
究極的というかむしろ現実路線だと思うのは、人口の減少を是とすることを社会が認めることだ。人間一人ひとりのエネルギーの消費量が膨れ上がっていて、それを容易には手放せないのなら、そうするよりほかないでしょう、と。人間それ自体がエネルギー源となり得る時代ではない。少なくとも、人間が増えていくことを前提とした未来を描くことは止したほうがよくて、その覚悟が必要である。
前時代的な生活水準を画時代的だと捉えることは、おそらく持続可能な社会としてそぐわないとされるだろう。もしそれができるならば、とっくに目標に掲げて突き進んでいる。だけど、頭数が減る事態になれば結局そうならざるを得ないとも思う。
ここで、アーミッシュの生活様式がふと頭をかすめたのだった。
 
じつは先進国の人口が減少のトレンドにある今こそ、良いタイミングなんじゃないかとすら思える。
 
終。