いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

2021/11/18 (木) 時間の比較社会学/ジャンクフード多量摂取日

f:id:morning-sneeze:20211119100531j:plain

ボーっとしながらも、なんとか書き上げた。

morning-sneeze.hatenablog.com

やっぱり、この時代のスピーカーはデザインも音も好みだな。
 
3時前。急に冷え込んできた。
 
10時起床。
身体は重いまま。眩暈は多少落ち着いてきたか。
 
陽が照っているわりには、昼になっても気温が上がらない。いよいよ冬到来か。
 
「時間の比較社会学」(著:真木悠介)を読み終える。
昔の人々の「時間」に対する捉え方と、現代人のそれとを比較する。
とりわけ「過ぎ去ったこと」「今」「まだ起こっていないこと」に着目される。これらは端的には「過去」「現在」「未来」だけど、一時代、一民族によってはそうではなかったり、そもそも存在しなかったりもしていた。近代化で時間の「見える化」が進んで、支配力を増すにつれ、時間から見放されたように感じる人間も出てきた。あまりにも近しい存在になり過ぎたから、社会的に要請される時間と個に流れる人生の時間の折り合いをつけるのが大変。擦り合わせばかりでは心が擦り減るので、時間からどうにか距離をとった場所で幸せになれたらいいよね、という内容。
 
現在が過去や未来によって支えられていないという感覚が、ひとつの不安な自己喪失感として意識されるのは、じつははじめにその自我の現在が、それじたいとしての内的な充実を失い、存在感の確かさを失っているからではないのか。
(p.257より)
自身の人生が連綿とした時間の中に存在していることを実感できないと不安になる、という感覚が、イマイチ理解できなかった。というか、今まで考えたこともなかった。
自分の場合、時間はどちらかというと「ブツ切り」で、それが当たり前だと思っていた。いつ、どこで、何をどのくらいして、どんな結果になったかの一切を問わず、それぞれの時間を過ごしていた自分はそれぞれの自分で、始まっては終わりを繰り返してここまで生きてきた。
いつの時期だって、実存を時間によって支えられてきたつもりは全く無い。"未来が今を支える"なんて、その言葉自体成り立つのかと思うほど不思議な感覚だ。その点でいえば、自分の時間意識は本書でいう「原始共同体」のそれに近いのかもしれない。
 
「どうせ死ぬんだから」という、己の生命の有限性による生の虚無感についても言及されている。
ここで著者は「現時充足的」な意識を持つことでやり過ごすしかないのではないか、としている。すなわち、自我を忘れること。
 
存在のうちに喪われたものを、ひとは時間のうちに求める。
(p.315より)
自分の場合、これは「未来を見て見ぬフリをすること」で解決してしまっている。来る時間が暗くつらいものであっても、どうにもできなくて今が苦しいだけだから、放置しているだけ。
未来が今を支えることはなくても、締め付けて苦しめてくることはあるわけだ。
これは、自分の今の生活や死生観に対して怠惰なだけなのではないかという気もしている。何かもっとできることはあるはずだと、どこかで思っている節がある。少なくともニヒリストには該当しないだろう。
過去に対しても、何かを積み重ねてきた感覚はない。これまでしてきた仕事も趣味も、それぞれに共通性がほぼ無いし、長く続かない。まさにブツ切り。
そもそもキャリア形成を意識したことがない。窮屈に感じるし、狭い範囲にしか有効でない。興味がない。
この点については逆に、ニヒルな捉え方をしているようにも思える。ただ、それによって自分の堪え性や甲斐性の無さに絶望的になることはあっても、すなわち自己喪失につながるかというと、そういうわけではない。それは別問題でしょ、と捉えているのだった。
 
もしも、現代を生きる人の多くが、この本の中にあるような喪失感を味わっているのだとしたら、自分は、今をちゃんと生きられていないのだろう。
だからといって、どうしようもないのだけど。
 

toyokeizai.net

「いじめられるのは、いじめられる理由があるから」ってヤツを難しく言い直しているだけ。自己肯定感なんてものは関係ない。
いったいどっちが陰湿なんだろう。人間は怖いな。
 
やたらとお腹が空いている。
カレーメシと野菜サラダ。それでも足らず、マクドナルドをデリバリーしてダブルチーズバーガー、フライドポテト、ナゲット2パックを追加で平らげる。
もしかしたら、今日が年に数度ある「ジャンクフード多量摂取日」だったのかもしれない。