いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」を読み終える

「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」(著:高村友也)を読み終える。
頭の中にあるモヤモヤしたものを、なんとか文章にして書き出したい、書き留めておきたいと思ったきっかけが、著者のブログに出会ったことだった。この方の文章を、生き方を、尊敬してやまない。
エッセイとなれば、読まずにはいられない。
 
忘れようとしても忘れられない「自分の死が怖い」ことに対して、向き合い続けた末に得られた解釈を、ていねいに綴った書籍。
地中に埋もれて見えないけどたしかに細かく張りめぐらされた「根」の部分について、拝読ではなく「拝聴」した気分になった。本を開くのは午前中の明るい時間帯が多いけど、この本は周囲が寝静まった深夜、BGMとなるようなものを一切かけず、灯し火を最低限にしたベッドの上で数ページずつ読むことが多かった。
 
「死が怖い」「死を恐れる」ことに対する、自分の感情を振り返ってみる。
著者は、死とは「永遠の無」だという。
つまり、死ぬことは怖くないのかと。苦しみが消えたその先の、永遠の無を想像して戦慄することはないのだろうかと。
(p.186)
最近することはなくなったけど、永遠の無を想像したことは、幾度かある。なかでも強烈だったのは、二度。
一度目は、小学校高学年くらいのとき。その前後の記憶は全く残っていないので、きっかけも状況もわからない。
「もし自分がこの世界から消えたら」を想像する。すると、目の前が突然暗転するのと同時に、意識がフワリと浮かび上がり、そのフワリとしたものが頭上のどこかに吸い込まれていきそうな感覚があった。
そのときは、とっさに引き戻すことができた。ただ、直後は変な汗が滲み出て、身体が硬直し、想像前とは別世界に移ったような現実味の無さと、なぜかさらに幼かった頃の記憶が頭の中でチラチラ浮かんでは消えるなどして、少なくともまともな状態ではなかった。
同じようなことが中学生くらいの年齢でも起こり、それが二度目。こちらはもっと記憶が曖昧。
いずれも、「自分が死んだとき」ではなく「そのあと、どうなるのか」を想像していくと発生している。
この不思議な感覚が、永遠の無に対する恐れなのだろうと理解している。自分自身が消えてしまうと勘違いした脳がSOSを発したのだと思う。
以来、同じ感覚を味わおうとこの領域に足を踏み入れようとすると自然とブレーキがかかるようになり、先に進まなくなる。「そこにはなにもないよ」と。
そして、やがて来るであろう自分の死と消え失せた自分というものは「とりあえず無い」ことにされ、今に至る。
 
「今この自分」が霧散しうることへの恐怖は、ある。あるけど、だからといってどうすることもできないし、考えたところでろくなことにならないから、考えない。
恐怖に思えるのもやっぱり今を生きている自分が居るからで、それが死して潰えれば、意識と一緒に恐怖もそこで闇に葬られると思っている。怖いと感じる自分は居ない。
 
やっぱり自分は、死を救いとして捉えている節がある。生の苦しみから逃れられる、唯一の所作。
死を生の一部として置いているから、著者のように生死をフラットに考えられていない点で、不誠実なのかもしれない。ただ、この卑怯な考え方は、なかなか覆りそうにないとも思う。
 
世の中には、永遠の無を想像してもなお恐怖の念を抱かない人がいて、むしろそちらのほうが多数派ですらあるようだ。
(p.50)
思うに、大勢が死について考えると世の中がうまく回らないから、自分のようにどこかでブレーキをかけているのだろう。多数派であらざるを得ない。というか、皆が皆自身の消滅に怯えながら、それでも成立する社会様式みたいなものを、想像できない。
生と死を吊り合わせるには、死はブラックホールのように規格外の重さで、秤に乗せることさえできないのかもしれない。ここに存在することや「生きたい」と思うことは、その超大な重力になんとか引き寄せられないでいるための遠心力として働いているのかもしれない。
 
終。