いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

アーミッシュ関連の書籍2冊を読み終える

アーミッシュに関してまとめられた書籍2冊を読み終える。
 
アーミッシュ もう一つのアメリカ」(著:菅原 千代志)
アーミッシュ」(著:堤 純子)
以前読んだ本の中にアーミッシュに関する記述があり、興味を持ったので購入してみた。
両著書とも、キリスト教アーミッシュの人々の暮らしをレポートした内容が中心。
アーミッシュ もう一つのアメリカ」は写真がかなり挟み込まれていて、現地のイメージが湧きやすいものの少々物足りず、ほぼ読み物の体の「アーミッシュ」も読んでみよう、となった。
 
一冊目のほうは、1997年発売。やっぱりインターネットの利用が一般的になった現代の様子も知りたかったので、2010年刊行の二冊目も読んでみて、なにか変化があるのか確認してみたかった。
 
しかし、読み終えた今となってみれば、これは何の意味もなかった。なんせ、アーミッシュの共同体は電気を利用しない。スマホはおろか、個人所有の電話ですら引き込むことを禁じているらしいのだ。
「インターネットの普及はアーミッシュの生活にどんな変化をもたらしたのか」という興味は、そもそも的外れだった。
 
現代文明の利器の導入にめっぽう消極的なアーミッシュ共同体は、生涯、外界との接触も最低限に抑えている。食糧確保、教育、結婚から障碍者介護に至るまで、隣人親戚身近な人間を巻き込んで人海戦術で絡めとってしまう。
クモの巣のようにはりめぐらされた人間関係
(「アーミッシュ」 p.154)
現代社会と比べれば間違いなく手間でも、できることは自分たちの手でなんとかしてしまう。本を読む限り、そんな印象だ。
 
アーミッシュの家庭はたいていが大家族で、基本的に自営であり、家族総出で仕事をこなす。年端も行かない、つい最近やっと歩けるようになったような子供ですら、大人に混じって立派に仕事をこなしている様は、無為無能の自分には頭が下がる思いだ。
 
ただ、これを「古き良き日本」みたいな、失われた美徳であるかのような表現をするのは、少し違うのかな、とも思う。
今ここでこうして、自分以外誰もいないアパートの一室で、時折唸りをあげる冷蔵庫の隣で煌々と光るパソコンモニターと睨めっこしながら、YouTubeをBGMにキーボードを叩いて発信していられるのは、こういう仕組みのほうがより良い生活を送れるだろうという考えのもと科学が発展してきた結果なのだ。なんでもかんでも人の手を借りてまわることをしなくてよい「利便」の方角に舵を取ってきて、良しとしてきた。それなら、懐古主義者でもない限りは現代の文化に浸れることに悦びを覚える人間が増えるのは自然なことだろう。
少なくとも、「古き良き日本」の生活圏からだいぶ離れたところに長期間過ごしてきた自分には、アーミッシュのような生き方をしようとすれば早晩壊れてしまうのが目に見える。何をするにもコミュニケーションが必須となる生活は、高度過ぎて眩暈がする。
 
言ってみれば、生命線が「人そのもの」か「金」かの違いだろう。誰かが直接助けるか、お金で解決するか。
ただ、自給自足を常とし、自助の仕組みが厚いアーミッシュでも、お金が必要無いわけではない。病院を利用すれば莫大な医療費がかかるし、税金の納付義務もちゃんとある。一定の稼ぎは必要で、近年は非アーミッシュ圏に出稼ぎをするアーミッシュも増えているらしい。
となれば、「クモの巣のようにはりめぐらされた人間関係」と収入源の、どちらも維持しなければならないことになる。そんな暮らしは煩雑すぎて、いったい自分がどこで何をしているのかわからなくなる。コミュニケーション能力の乏しい自分には、さぞかし息苦しい生活だろう。いくらそれが尊いものだとしても、やっていけない。
 
結局、「金で解決できるならそれでいいな」という俗な感想に落ち着くのだった。
それができなければ、積みだ。
 
終。