いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を読み終える

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」(著:熊代亨)を読み終える。
人の抱える「生きづらさ」が昔と今でどのように変遷したかを、複数の観点から述べ上げた書。
昨年買ってそのまま忘れ去られていた。部屋の整理をしたときに発見し、ちょこちょこ読み進めていた。
 
各章で取り上げているトピックには、共感できる部分が多くある。
個々人の生きづらさと結びつけて考えたとき、現代人ならではとして挙げられている諸問題自体よりも、「まともな人間」とされるものがある程度定まってきて、そこに向かう道筋を作って進もうとする動きにどうしてもくっついてまわる寛容の欠如とか自由の狭窄みたいなものを、どの程度まで許容、あるいは無視できるかに帰結するような気がする。
現代社会の多様性や社会参加は、清潔で行儀が良く、落ち着きがあってコミュニケーション能力があり、効率的かつ持続的に経済活動ができる自立した個人を基本としているのではないか
(p.81)
なにをするにつけ「こういう人間であれ」という、隠匿されたメッセージが強いのである。その内容も、まるで携帯電話の契約書に添付された約款のように、ひとえに増え続けて小さな文字でビッシリ書かなければならないほど細かくなっている。スマホを使いたいだけなのにいったい自分になにをさせようとしているのだろう、と。
 
どの時代にだって相応の生きにくさを感じ、生きづらいと感じる人間が存在していたはずである。時の流れとともに社会の規則や秩序や行動様式が変わっていき、それにうまく適応できる者もいれば器からこぼれ落ちる者も多かれ少なかれいたのだと思えば、この本で語られていることはどれも空虚なものに感じさえする。時代に即した生き方ができなければ苦しいのは当たり前だから。
そこから掬い上げようとする現代の社会制度も、疎外感がより一層強まるように仕向けているように見えるのも当然といえる。
ハンディを補った社会参加とは、ハンディがそのまま露わになったかたちで社会に参加することではなく、ハンディを治療や福祉や法制度によってサポートしたうえで、この高度な秩序にふさわしい一員として社会に参加することにほかならない。
(p.81)
病気を治療するのも住む場所を与えてお金を出すのも、「正しい社会の、正しいとされる人間像になってくださいね。その条件で支援するんですよ。助けるからにはそれなりの人間になってもらわないと困るんですから」と言われているに等しい。そして、それはどこまでも正しい。正しいからつらい。
自分が社会に参加して得た"うつ"という病気も、病気を治して社会に復帰させようとする支援はあっても、うつ状態のまま生きていく選択はない。治療することはすなわち、病気の原因となった社会という名の環境に、また身を置かねばならないのだ。社会に戻るためのサポートは、自分自身へのサポートとはならないのである。
 
おそらく、生きづらさを解決することは不可能であるように思う。少なくとも社会側にそれを求めるのは間違っている。
うまくやっていける人はそれでいいし、そうでないなら、生きる苦しみは苦しみとして抱えて、不自由と自由、秩序と無秩序の狭間にある散策路を歩いていくしかないのである。
 
終。