いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち」を読み終える

発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち」(著:本田秀夫)を読み終える。
 
主に自閉スペクトラム症ASD)と注意欠如・多動症ADHD)に焦点を当て、それらの特徴が重複して現れる状態についての理解と、それらの発達障害の特徴としては軽微で、発達障害と診断されるかグレーなあたりに該当する人の生きづらさについて、どのような身振りをするべきか著者の考えを述べている本。
明らかな支障があり、誰がみても障害だとわかる例ではなく、発達障害かどうか判断しにくい例を中心にとりあげている
(「第5章 自分が「発達障害かもしれない」と思ったら」より)
特に、ASDADHDの特性の強弱にはグラデーションがあり、その二つが重複する場合と併せて図解したものは、理解しやすくて良かった。一般的な特性を持つ多数の人々と、発達障害の特性は地続きであることが示されていて、納得できる部分もある反面、「障害者」って呼ばれているものは病気ではなくて、やっぱり社会的な意味合いが強いんだなと改めて思った。
「D(Disorder、障害)」とはいえない、「ちょっとAS(自閉スペクトラム)」で「ちょっとADH(注意欠如・多動)」
(「第1章 「自閉スペクトラム+注意欠如・多動」な人たち」より)
「ちょっとAS」の自覚がある自分も、本書に取り上げられている「交流重視の会話」と「内容重視の会話」の違いに自ら気がつくのに、本当に長い時間を要した。今現在もそうだけど、気をつけていても「内容重視の会話」になってしまう。どうやら人々は、親交を深めるために「交流重視の会話」をするらしい、ということが、成人してからようやく分かってきた。
でも、その「交流重視の会話」には、いまだ馴染めない。そもそも興味が湧かないのだ。
会話はあくまでも情報交換のためであり、時間つぶしや交流のために会話をしようという気は、基本的にはない
(「第1章 「自閉スペクトラム+注意欠如・多動」な人たち」より)
まさにこれなのだ。幸い、これで大きな支障は起きたことはない(と思いたい)けど、うまくやり過ごしてきたとも言い難い。もうちょっとうまく喋れるようだったら、また違う人生だったのかな、などと思うことも往々にしてある。
 
著者は、発達障害なりの環境の構築が重要であると説く。たしかにそうなのだけど、格差が広がっていく社会において、はたしてそんなことが可能なのか、とも思う。ただでさえ汲々なのに少数派の面倒も見なければならないなんて、多数派からしてみれば得することはないわけで。
少数派が損するのは当たり前であり、仕方のないことだから、こちらはこちらで細々やらせてもらう、というスタンスのほうがラクな気もする。「ちょっとAS」も「ちょっとADH」も、多数派の内の障害者になり得ないのなら、なおさらだ。
そんな身も蓋も無いことを思った。
 
終。