いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

2021/07/23 (金) 読書が嫌いなわけではなかった

f:id:morning-sneeze:20210724002116j:plain

カニカルキーボードキットの記事用の写真を加工していたら、2時。
最近は夜型人間から自然と徐々に昼型に移行してきているので、これ以上の夜更かしは避けることとする。
 
起きる。
どうにもイライラして落ち着かない。最近何の前触れもなくこの状態になることが多いな。
 
世の中、くだらない物事ばかりなのに、そこに自分も含まれていることをもっと若い頃に気付くべきだった。
 
何もしたくない。
  

こういうの、無いよりはいいと思う。でも、読書感想文が嫌い、あるいは苦手と感じるのは、別の部分にある気もする。
自分は小学生時代、読書感想文が嫌いだったひとり。理由は複数あって、原稿用紙のマス目に文字を一文字ずつ書き込んでいくのが好きではなかったとか、漫画や雑誌はダメだという謎のルールが腑に落ちなかったのもあるけど、前段として当時は感想を自分以外の誰かに知られたくない、表明したくない人間だった。最終的に人に見せるための文章を強制的に書かされるのが嫌だったし、そのために本を選ばなければならないことが苦痛だった。
今はそんな奥ゆかしさも消え失せて、数年前から何か一冊本を読んだら日記と称して読書感想文を付けて、あろうことかインターネットに垂れ流している。小学生の自分からしてみれば信じがたいことだろう。でも、書いていられるのは、頭で覚えている内容の整理や、読んだ記録を付けておきたいからなんだけど、「書かずに自分の内に仕舞っておいてもいい」から続いているところが多分にある。書かなくてもいい。これ重要。もちろん、筆記具を用意しなくてよい、手書きでなくなった手軽さというのもあるのだけど。
だから、今でも誰かに「何でもいいから本を読んでこの日までに感想を書いて提出しろ!」と言われたら、間違いなくゲンナリする。思い浮かんだことを曝け出すのが事実上の義務になるから。
人間の読書との付き合い方と、自身のインプレッションをオープンにすることに対する性格の違い。そこは多様なはずなのに、授業の一環として枠にはめてしまうから、読書と作文に苦手意識が生まれる人はどうしたって出てくるのだろう。
 
パソコンのディスプレイに向かって、メカニカルキーボードキットの記事を書いている。ディスプレイの両隣にあるスピーカー「JBL 4312M mark II」で古いCD音源を鳴らしながらキーボードを叩いている。
4312M、設置してしばらくは楽しんで聴いていたけど、体調によっては高音が喧しく聴こえることがあるんだよな。癖が強くて、それが耳に合わないのかもしれない。

morning-sneeze.hatenablog.com