いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

2023年12月 身辺雑記

 

日記

 

12月1日(金) さめる

先月コーヒーミルが故障したのをきっかけに、コーヒー自体に意識が向かなくなってしまっている。淹れかたも以前と変わっていないはずだけど、美味しいと感じることが減った。
 
コーヒーは、これを機に記録をつけるのをやめようかな。結局、あれこれ淹れてみて日記に書き溜めても、それがなにかに発展する感じもしないし。
なにを飲んだのか忘れないようにするために適当なレビューを綴り続けていって、2年以上。市販で容易に購入できるものはだいたい手に入れたような感じがする。ここからさらに開拓していくとなると、やたら高価なものに手をつけるか、質の悪い豆を手にするリスクを負いながらよくわからない販売業者から購入することになる。どちらも御免だ。
コーヒーは、あくまで嗜好品。日常で軽く嗜むものであってほしい。これからは、あちこち手を伸ばすよりも、信頼できるロースターから美味しいコーヒー豆だけを選んで購入するようにしたほうがいいのかもしれない。
そうなれば、今まで購入したことのあるコーヒー豆のリピートをあえてさけるようなこともしなくて済む。
 
コーヒーのハンドドリップを始めたきっかけは、あまり詳しく覚えていない。たしか、Youtubeの動画だか誰かのブログだかで、たまたまコーヒーを淹れている場面を目にして、自分もやってみようとなったのだと思う。コーヒー自体は昔から飲んでいて、それまではティーバッグに入ったような挽かれた粉の豆に湯を注ぐタイプのものを利用していた。家で頻繁に飲むのならもう少し本格的でもいいかな、と思ったのだと思う。ペーパードリップだけなら必要な機材の投資もかなり小さくて済むので始めやすかったのもある。
 
自発的にではなく、誰かの熱を受けて始めたことは、やはり人からの影響で終わりやすい。なんてことのない些細なことがきっかけで、命綱が切れて崖下に落ちていくかのように、部屋の電気のスイッチをOFFにするかのように、一気に冷めることがある。
この「さめる」は、"醒める"でもある。冷静とか冷徹とかに近い気がするので、表現するにあたっては"冷める"のほうを採用している。でも、冷める前の自分は夢だったかのように遠く霞んでしまうことから、"醒める"感覚もある。
 
この魂が抜けるような感覚が、言ってしまえば死の概念に似ている。つまるところこれがイヤだから、なにかに興味を持つことをさけたがるのではないか。惹かれ続けるのも生命活動だと捉えている節がある。事なかれ主義をこじらせたようなメンドクサイ素質がベースにあって、あらゆる行動に繋がっているのだろうと思う。
 
いろいろあるのがイヤだから、なにも無い方向に進みました。それが今の自分です。
なにも無いけれど、熱に浮かれて押し潰されたり、定常的に心を擦り減らすよりマシです。
 
この考えかた、反出生主義に繋がっている気がする。
 

12月5日(火) 危機感

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