いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「なぜ人に会うのはつらいのか」を読み終える

「なぜ人に会うのはつらいのか」(著:斎藤環 佐藤優)を読み終える。
対談形式で読みやすい。
 
タイトルにある通り「なぜ人に会うのはつらいのか」についてと、「人に会わないとどうなるのか」についても取り上げている。自分はどちらかというと、後者のほうに関心が向いた。
 
なぜ人に会うことをつらいと感じるのかについて、「会うこと=暴力」というちょっとセンシティブな図式が出てくる。各々のパーソナルな領域をどうしても侵さざるを得ないので、まあそのとおりなのだけど、
「他者に対する力の行使」すべてを指す概念
(p.78)
だというと、ちょいと対象が広すぎやしないかい? という気がしないでもない。
もっと限定的に据えてもいいと思う。人と会うことそれ自体は暴力的なことではなく、会うことが強制されたり、思いがけず吹っ掛けられたりすることのほうを暴力とする。いわばシステム側のエラーで引き起こるもの。
その不具合だって、せっかく未知のウイルスが露見させたのだとしても、誰かと誰かが会うことを是とする限り見て見ぬふりをされて修正されはしないのだろうな。直すったってどうしようもないし。
 
「暴力」というワードを使うなら、人と会うことを推奨、推進する圧力みたいなものに対して形容するときにあてがいたい。
 
人と会わないでいるとどうなるのか。
欲望の低下が起こる。欲望を維持できず、無気力状態に陥る。内なる欲望を見つけ出すことは困難で、たいてい自分以外の誰かから得続けなければ維持できない。欲望は他者の欲望であると。
たしかに自分にはそういう面がある。ただそれは、徐々にそうなっていったわけではなくて、元来備わっている性質だと思っている。
 
流行り病で引き籠りが推奨され、それ以前のようなコミニュケーションの様式が制限された時間が長く続くことにより、ストレスとなり気落ちする人がいる一方で、みんながみんな引き籠ることでそれまでの密な人間関係から解放され、むしろ助かっている人も一定数いることにも触れている。
自分は言うまでもなく後者側の人間だし、振る舞いが社会に合うよう自分を取り繕い続けていたところに社会から自分のほうへ歩み寄ってきた稀有な現象はウイルスのおかげだと思っているくらいなので、すべからく現状維持を望むのだけど、最近の公共交通機関の混雑や街中の人出を見ていると、やっぱり大半の人が以前の生活に戻りたいんだな、外に出ず人と会わないのはつらいと感じるのが常人なんだな、と思わずにはいられないのだった。
自分は、それが不思議だったのだ。なんでみんなそうまでして会いたがるのかと。

暴力かどうかはさておき、他者を観察していると、どうやら人には「コミュニケーション欲」みたいなものを有していることは、一応わかる。ただ、自身はそれを渇望した経験が皆無に等しく、それどころかどうしたら誰とも対面せず乗り越えられるか、いかに会話せず済ませられるかを考えて生きてきた。今のようなプータロウ生活になってからは、最小人数の人付き合いと、必要最低限の文言を発することで日常生活が成り立っており、幸いにも「人と会う」ことについては理想的ともいえる環境にいる。そんな事実上の孤立状態にあっても、先述のような欲は微塵も抱かないし、その気配すらない。かねてより望んでいた状態を現実のものとしているのだから、当然といえば当然なのだけど。
 
この本の対談でいわれていることが真実だとすれば、自分が他人と極力会わずにいられるのは、結局それで生活できてしまうからだと思う。食欲、性欲、睡眠欲がちゃんと満たせて、日中どこにも出掛けないで家にいられるなら、パソコンで専らSNSや動画鑑賞、ニュースサイトの流し読みや、たまにゲームをやったりすることができれば十分なのだろう。欲望自体が自分でも認知できないくらいに小さいということだ。
でも、たいていの人間は、そうではないらしいのだ。
 
暴力を日常的に楽しめる人間として生まれてこなかったのは、仕方がない。
あきらめて暴力性を帯びた世界に身を置くか、それとも別のアプローチができるのか。できれば後者を探っていきたい。 
 
終。