いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』を読み終える

『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』(著:近内悠太)を読み終える。
何冊か積まれている本の中にあった。いつのまに。なにが気になって買ったんだっけ。まったく覚えていない。
 
過去の行いが、現代に行いによって遡及して変化する。この時間の逆行が、じつは起こりうるのだ。それがセルフケアに繋がる。
自分はこれまで、この考えかたが育たないまま過ごしてきたように思う。
僕らは「現在の私」を肯定することができないから、過去を肯定することができない。
なぜならば、現時点での私の状況、境遇が納得いくもの、満足のいくものであるならば、それが過去の出来事を指示する物語文を構成することができ、それによって、過去の意味が変わる。
(p.246)
いつだったか別の記事でも同じことを述べた気がするけど、生活のなかで、こういったことを意識することがまったく無いのだ。
過去があって今の自分がある、というのは、正常な時間軸上での因果があることを、それなりに実感している。
しかし、それだけだ。過去の出来事は過去のもの。過ぎ去った物事は履歴として残り、それがあとから変容することなど起こり得ない。そういったものを無為のうちに習得して、これまで生きてきたように思う。自分の心臓が動き続けていたり、地球に大気が存在することと同じレベルで、事実の陳列がそこにある、当然のこととして認識している。
だから、本書の論旨は理解できるもののイマイチ共感できないというか、実感に則していないところがある。
 
自分のなかの過去の記憶を引っ張り出してあとから「~だったことになる」と上書きするのがOKだったら、もうなんでもアリではないか、とも思う。それができる人間はそもそもケアする必要もないのでは、とすら思う。まあ、逆にそのくらいのことを常日頃からやっていかないと、自己肯定がままならないのかもしれない。
だからだろうか、ちょうど最近聴き直している松任谷由実作詞作曲の『ダンデライオン』の歌詞の引用についても、慰めていることはわかるけど、大丈夫か? みたいな印象がある。さすがに天の邪鬼が過ぎるだろうか。
 
要するに、過去に受けた心的な傷や嫌だった出来事を現在に則した肯定的なイベント事として認識し直してしまえ、ということなんだけど、それはあまりにも都合が良すぎないか? と思うのは自分の感性が特殊なんだろうか。そのうち知らないうちに事実を捻じ曲げていそうで、怖くもある。いわゆる「無敵の人」って、この積み重ねで作られるんじゃないのか?
 
傷を負ったとされる当時の自分の視座とか固定観念が、時を経るにつれて修正されたり移ろうことはある。たとえば今、当時と同じことが身に降りかかったらとしたら、また違う反応をしたり、あるいはあえて反応しないこともあるだろう。
でも、それはそれ。過去は過去。即応したり自己変容と呼ばれるものがあったとしても、ひとたび起こったことは不可逆なんだから、そこの意味まで変えてはいけないと思う。それこそ「ジェンガ」のように、土台となる部分を弄くりまわして頭でっかちになれば、そのうちバランスを失って崩れてしまう。
過去という図は変わらない、しかし、その図の「見え方」は変わる。なぜなら、過去とは一つのアスペクトだから。そして、自分の正しい物語が語り出せた時、僕らは運命を知る。
(p.247)
自分の人生に対する認知がこんなだから、ストーリーが断絶してブツ切り状態になっているんだよな。過去の行いに誠実であろうとすることを履き違えている。
過去を現在や未来と結びつけることをなるべくしないのは、意味を見いだすこと自体を怖がっているから。自分のこれまでの人生が無意味であったことを自認せざるを得なくなるからだろう。運命という名の「答え」を見つけてしまうのが怖い。
世界に向けた生きづらさではなく、内面の、個としての生きづらさみたいなものをずっと感じているのは、このあたりが要因なんだろうな。
 
終。