いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『鬱の本』を読み終える

『鬱の本』を読み終える。
鬱の本

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鬱の本、というより、「鬱と本」だと思った。どん底の状態のときにどんな本を読んで救われたか、気が紛れたかというようなことが、見開き一ページ単位でまとめられている。
 
読んでいてことさら不思議だと感じたのは、人は、鬱とか憂鬱と呼ばれる状態のときでも読書をしようと思うことがあるんだ、ということだ。
 
小説や詩や、そういった文字ばかりの本を読むことはほとんどなかった。
小学校にあがるころから自宅の手の届く範囲に本があったけれど、あえて開こうとすることはなかった。国語の教科書の延長であり、夏休みの宿題の読書感想文を作るためにわざわざ読まなければならないものだった。本というものの認識は、学校と深く結びついていた。
中学生になってもそれは変わらなかったけれど、ようやく漫画というものに興味が向き、少しずつ読むようになった。買って、自室の本棚に並べてそれなりに空間を占拠する程度にはなった。でも、どの漫画も一度読んだものはだいたいそれきりで、再度読み直すことはしなかった。そもそもそんな気が起きなかった。新刊を待ち望むこともなく、定期刊行の購読もまったくしていなかった。
高校生になるころには、また自然と本から離れていった。棚に立てかけてある紙が束になっているようなものといえば、やはり教科書や参考書くらいのものだった。
 
だから、バイブル的なものが自分には存在しない。自身のお守りとして、拠り所として、常に手元に携えていたくなるような一冊があるという話を知ると、羨ましくなるのだった。
それと同時に、自分にはどうにも、そういった感覚がおよそつかめそうにないとも思う。
 
昔から、感情を揺さぶられるのが苦手だった。漫画、映画、テレビのドラマ、アニメなんかでもそうだけど、ストーリーや登場人物に感情移入しがちで、それに意識が支配されるような感覚がつらかった。これは今でもまったく変わっていない。「読書で救われる」という感覚がつかめないのは、このあたりの事情があるのだろうと思っている。
本を開くと、あまりの意味の多さに呆然としてしまう。感情を持っていかれそうになるのが苦しい。それで、読めない。
(p.128)
誰かの物語を覗く。別の世界を覗く。そういった趣旨のことが、この本にはよく出てくる。自分は、それすらもつらい。読書を通じて別の世界が自分の中に入ってくるのがつらい。自分はそこにいないし、まったく関係ないのに、地続きのどこかで知る由もない物語があることを感じるのがつらい。
そういったものを摂取するのは、体調がよほど良いときでないとムリ。鬱のときなんて、とてもできたものではない。
 
そんな自分でもなんとかできたのが、音楽を聴くことやゲームをすることなんだろう、と思う。それらは、現実と空虚で埋め尽くされた頭の中を吹っ飛ばしてくれる。
インクのシミを文字と認識して、人間の発する言葉として理解して、文章として意味や意訳を解釈して、ようやく自分のものとして取りこむまでのエネルギーの捻出が、鬱のときにはハードルが高すぎる。
これが音楽やゲームだと、それらの作業の工程や"お作法"があらかじめある程度定められていて、パッケージングされている。理解しなければならないことが少ないし、理解しなくても問題ないようになっている。自分の境遇やその時の気分と繋がろうとすることはせず、あからさまにファンタジーだと分かる出鱈目さ、良い匙加減の無意味さで、自分や世界とちょうどよい具合の距離感を保ってくれている。
たぶん、ひとまとめにしてあるものを短時間でパッと投げ与えてくるくらいであれば、ストレスになりにくいのだろう。といっても、薬を処方してもらってなんとかしようとするくらい酷いときは、それすらもつらいのだけど。
 
自分には、「鬱のときでも読める本」に該当するものが存在しない。きっとこれからも出会わないだろう。認識できないのだから。
鬱のときに、そもそも他者とかかわろうという考えに至らない。本も他者だ。他者と会うことにものすごくエネルギーを使う。誰ともかかわりたくないのだから本を読むことも避けることになる。まあ言ってみれば、それだけのことだ。
 
しきりに外の世界から脱することを切望する。それが鬱の症状だと思う。本だって、それがひとつの世界である。本を開くことは、自分自身の内なる世界以外のどこかとつながることになる。心身ともに身動きがとれない人間からしてみれば、それができれば苦労はしない。それができないからつらい。
私は誰かと考えを共有したいわけではなかった。本と音楽だけでよかった。
(p.31)
ずっと、鬱と読書って相性が悪いものだと思っていた。今でも思っている。でも、じつはそうでもない人間もいることを、この本の内容が示している。
やっぱり羨ましい。若いころから本を読む習慣をつけていれば、また違ったのかな。
 
不思議なもので、自分がどこにいるのかわからない、周囲はなにも見えない、真っ白な暗闇のなかを彷徨い歩くことに疲れたとき、ようやく手が伸びる。引き籠ることに飽き、あるいは焦燥感に駆られて、ちょっと体調が上向いたときに意識が向くかもしれないもの。自分にとって本とは、そういったものであるような気がする。
本は、見ず知らずの誰か、である。でも本のほうから声をかけてくれるわけではないから、会おうと思ったらこちらから会いに行かなくてはならない。アポを取らなくていいぶんハードルが低いというのはあるけど。
受動的な雰囲気を醸しておいて、けっこうアクティブな行為なんだよな。読書って。
本で癒やされるものを鬱とは呼ばんのです。本は休んだあとで読むものだ!
(p.51)
そういうわけで、なんせ一冊に84名も居るものだから、手元に届いてから読み終えるまで3か月以上も費やしてしまった。
 
終。
 
鬱の本

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