いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

2021/09/20 (月) 森の生活

f:id:morning-sneeze:20210921023222j:plain

2時。またこのまま椅子の上で寝てしまいそうだ。
 
朝食は久々にパン。
あとコーヒー。
ブラジル/ミナスジェライス/ボンジャルディン農園。ブルボンアマレロ。パルプドナチュラル。
豆の状態から強いカカオの香り。チョコレートだ。これ。
淹れたお味は、円やかな苦味がある。甘みと酸味はあまりない。チョコレートのような味もしない。
ハニー製法にしては独特の甘みがない。あのカカオの芳香は何だったのかと思うほどパッとしない。豆が古いのかもしれない。
死豆も結構ある。Amazon購入の豆、二連続で失敗か。
 
相変わらず眩暈が続いているのだけど、コーヒー飲んでしばらくしたら、少し元気が出てきた。もう10時前だけど。
 
昔の記憶、徐々にあやふやになってきたけど、楽しかった記憶が率先して消えていって、つらい、苦しかった記憶は消えるどころか浮き彫りになってきている気がする。
 
昨日発注したアンプ用のコンデンサーがやっぱり気に入らず、別のを探していたら、12時。
昨晩残しておいた弁当の残りを食べたら、何もしたくなくなってしまった。溜まってきた本でも消化することにしよう。
 
「森の生活 ウォールデン」(原著:Henry David Thoreau 訳:飯田実)の上下巻を読み終える。
もともと、昨年の暮れに上下巻セットでKindleで購入し、ウーバーイーツの配達業務の合間にスマホでチマチマ読み進めていた。しかし、今年に入ってから出前館の配達もするようになると、余暇時間が実質無くなり、電子書籍自体まったく開かなくなっていた。今月たまたま仕事以外で遠出する機会が比較的頻繁にあり、公共交通機関を利用している間に一気に読み進めたのだった。
 
ソローの森の生活は、たしか20歳前後の頃に読んでみたことがあった。でもそのときは、ソロー独特の逆説的な言い回しや比喩、多岐の古典文学からの引用、簡素すぎて逆に理解しがたい文章たちが、弱い頭を混濁させ、たしか半分読み進める前で読むのを止めてしまった。今回紙の本から電子書籍になり、難しい表現や歴史上の人物などには逐一注釈が付せられていて、非常に助かった。聞き慣れない単語もすぐにインターネットで検索でき、読書の中断を最小限にできた。
紙の本のままだったら、たぶんまた苦痛になって別の本に移り気していただろう。
 
この本を読んだ感想としては、
「自分は、自然とともに生活したいわけではないんだな」
と気づいたこと。
上下巻通じてこの本に記されているのは、おおよそ森での生活風景だ。ソローはこの本の原稿を、自身の日記から編纂しているらしく、自分が建てた小屋の周りで起こる出来事を事細かに、かつ素朴な言葉づかいで表している。
"森の生活"なのだから、身辺雑記は当然自然にまつわるエピソードであふれる。特にウォールデン湖に絡むものが多い。
 
たしかに人の手がほとんど加えられていないような森や湖で起こる現象は、その場所に住まう者しか出会うことができないものだろう。でも、自分がそんな経験をしたいかというと、差し当たりそんなことはないのだった。
私が森の生活にひかれた理由のひとつは、春の訪れを見るゆとりと機会がもてそうだということだった。
(下巻。「春」より)
春の訪れが尊いのは相違ない。でも、森の中に住んでまで自分がそれに立ち会いたいかというと、そうでもない。
私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。
(上巻。「住んだ場所と住んだ目的」より)
取捨選択して身の周りにあるいつの間にか増えていた塵たちを捨てるのは、生きていれば必要になってくることは自分にもわかる。でも、ゴミ出しのためにわざわざ森の中まで向かうことはしない。
 
十九世紀アメリカ。時代背景に詳しいわけでも、当時その国に住んでいたわけでもないから、現代人の自分と比較するのはおかしな話ではあるのだけど、共感できる部分もある。
かなうことなら、ぜひ宇宙の「創造者」とともに歩みたいのだ。こんなおちつきのない、神経質で、騒々しく、こせこせした十九世紀に生きるのは気が進まないから、時代が通りすぎてゆくあいだ、物思いにふけりながら、立ちつくすなり座るなりしていたい。
(下巻。「むすび」より)
考えられたり、語られたり、あるいはなされたりすることは、まれに、たまたまある程度の一致を見た場合にのみ役に立つのである。
(同上)
私は生活に広い余白を残しておきたいのだ。
(上巻。「音」より)
自分の、常に頭の隅に漠然とある、人さまにいうには憚られるような意見だって、時と場所を選ばず持ち得る人は存在していたのだ。いつの時代も、人間の思うことなんて大して変わらないのかもしれない。
それでも、目先に森や湖はないのである。
 
小さい頃から、人の気配がしないところに住みたいと思っていた。今のオンボロアパートに住みはじめて、おそらく煙草であろう不快な臭いや誰かの生活音が耳に届くようになってから、その理想はさらに魅力的に映る。
たぶん、現代日本でも森に住むことはできる。実践している人たちがいることも知っている。むしろ今のほうがやりやすいのかもしれない。でもそれをしないのは、「自然の中に住まうこと」が理想ではないからなんだろうな。
例えばお金の力を使って、現実空間から"隔離"されたような場所にひとり住めるのなら、別にそれでいいのだ。自然の中だろうが、人工物の中だろうが。
何かの偶然で、結果として森と共に生活することになったとしても、それはそれとして受け入れたところで、特別自然や動物や昆虫が好きなわけでもないので、そこで何者かの生命を感じた途端、また「別の森」に移動したくなるんだろう。
 
なんにせよ、薄っすら持ち合わせているペシミズムに従ってやることではない。そういう暮らしができることに、憧れはするのだけど。
 
眩暈は続く。
コーヒー、もう一杯淹れよう。
 
夕方より配達業務。
祝日夜とは思えない低需要。閑散期とはいえ、ちょっとキビシイな。
 
デジタルアンプのコンデンサー交換のために回路を追っていたら、日付が変わっていた。