いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『万国奇人博覧館』を読み終える

『万国奇人博覧館』(著:J-C・カリエール、G・ベシュテル 訳:守能信次)を読み終える。
古今東西、老若男女問わず、人間の奇行についてまとめた本。
 
世界各国の奇人にまつわるエピソードが、五十音順に並べられた字引のような体裁で、700ページにわたり綴られている。
その行為がいかにおかしいかを論ずるのではなく、人間の摩訶不思議で底知れぬ業の深さを嘘か誠か記録しているものに基づき、淡々とかつユーモアな語り口で書き出している。
 
原著は1990年代前半発刊らしく、本文に載せられたエピソードはそれ以前のものとなる。ヨーロッパ諸国における人物が大半を占めており、日本を含むアジア圏についてはあまり出てこない。
個人的に、20世紀以降はともかく、中世以前の時代のものについては、時代が遠すぎるからかたいていおとぎ話のように思えて、なかなか現実味が湧かなかった。
 
有名無名問わず、宗教絡みが多いな、という印象。とはいえこれはまあ、なにかに"目覚めた"人間が傍から見て突拍子もないことをしでかすのは、変人であるのは間違いなくても、奇怪な行動や言動をすること自体は理解できないものでもないかな、とは思う。
奇行をするべくしてしている。この書籍に出てくる人物に共通して言えるのだけど、やっている本人はいたってまじめ、本気なのだ。
「わたくしは自分の意思とは無関係なところで、単に創造主(つくりぬし)に創られたがままのわたくしを世間様に見ていただいております。従ってそれがどんな結果をもたらそうと責任は持てません。わたくしにはどうにもならないことなのですから」
(p.405)
 
お金持ち(≒権力者)が財力や権威を後ろ盾におかしなことをするのも、わからなくはない。反対に貧乏人についても、「赤貧洗うがごとし」に収まらない人間が同様に大それた行動に出ることもあるだろう。
でもやっぱり、影響力が大きくかつ記録に残りやすいからか、王族や貴族、それに準ずる資産家などの突飛なエピソードが多く載せられている。
財力こそがかかる奇行の母である
(p.627)
このこともおそらく、同じ人間であってもどこか遠くの、別の世界の出来事に思えてしまう要因である気がする。
 
当人がどの程度意識していたのかわからないけど、奇人として名が残るのは、奇行と呼ばれるものが当人以外には奇異の目で見ざるを得ないような行動だったからであり、それでいて解せないところがあっても時代を生きる人間にとってなにかしらインパクトのあるものに映ったからだろう。理解できないのは当然でもあるし、それゆえ奇人とされる。
しかし、そこに同情とか人間の可能性とか、そういったものに地続きに考えていけるだけの理解までには、自分は到達しなかった。
それは、奇人たちの奇行よりも、そのことにより実害を被った人、眉をひそめた人、どんなかたちであれ関わった市井の人間の側のほうに感情移入してしまうためだ。間違いなく凡人である自分の立場がそうさせているのだろう。
もちろん、そうでない奇人もいる。誰かを喜ばせる、あるいは良心に与する人たちだ。ただ、そういうものはそもそも奇行というカテゴリーに組みこまれづらいのか、数が少ない。その点もモヤっとする。
 
それと、読んでいるととにかく眠くなる。いかに奇行といえど、そも他人の人生にとことん興味が無いのは変わらないのだった。
就寝前の睡眠導入剤となっていた。数行読めば即座に欠伸が出て、数ページ読み進めるだけで意識が飛ぶ。
自分には奇人変人を見て楽しむような癖(へき)はないということか。
 
終。