いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『知ってるつもり 無知の科学』を読み終える

『知ってるつもり 無知の科学』(著: スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック 訳:土方奈美)を読み終える。
世界のあらゆる事象や物体について、人間の認識がどれほどまで「知ったつもり」でいるのか。それを主に実験によって法則を見出し、解き明かしていく。
 
驚愕の結果が出たにもかかわらず、それでもなぜ人は生活できるのか。
それは「錯覚」のおかげだ、と著者らは述べる。この「錯覚」が本書のメインテーマである。
知識は、じつは個人が持つものはたかが知れていて、大半は自分以外の他者から仕入れた情報を取りこんで、それを自分の知見だと思い込んでいる。本書ではこれを「知識の錯覚」と呼んでいる。
また、なぜこのようなことが起こるのかということについて、人は「知識のコミュニティ」のなかに生息するからだという。
知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティで生きているからであり、自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないためだ。(中略)これは認知の特徴であると同時に、バグである。
(p.193)
複雑怪奇なこの世の中、人は対峙するものすべてを高度に理解していこうとすると、頭は耐えきれずパンクしてしまう。そこで、知識のコミュニティという情報の集合体に身を置き、そこに知るべき情報のリソースをある程度預け、必要なときに掻い摘むようにすることで、特定の事柄を一から百まで事細かに知ることなしに生活できてしまえるのだという。要は、外部記憶装置のようなものである。
人は古くから、この仕組みを利用してきた。自分の知らないことは、外部から見聞きしたものに頼らざるを得ない。脳が破綻しないよう、錯覚をうまく活用し、知らないことも「まあ、そこそこ知っているよ」と嘘をついて過ごしているのだ。
 
知識のコミュニティは、人によってはリアルな対人関係だったり、テレビ放送の番組だったりするだろうけど、自分の場合はインターネットが占めている。ニュースサイト、SNS、ブログなど、スマホやパソコンのモニターに表示される文字の羅列から情報を得ることが多い。
外部に接続できる環境があればいつでも利用できるインターネットが便利なのは自明だ。対人関係を維持することが体調面でも精神面でも苦手な自分にとって掛け替えのないものであり、今やこれ無しには生きられない状態になっている。
「コミュニティ」という言葉は昔から嫌いで、独りでいるほうが穏やかでいられるからそうしていたいのだけど、生きていくためには欠かせないものであることも認識せざるを得ない状況でもあり、今後の付き合いをどうするか、どう広めていくかが喫緊の課題となっている。
 
ただ、言わずもがな、コミュニティはだれかの専門的、正確かつ恣意的な思惑が含まれていない情報が提供できているからこそ成り立っているわけで、個々人がまったくの無知でいられるものでもない。知識を増やすと同時に、そこにある情報を扱うための見識も高めなくてはならない。
知識のコミュニティに安住するためには、結局のところ個人の知識が必要になるという、循環しているというか、にべもない話になってくる。
しかもこれを実現するには、常に謙虚でいなければならないというのも、つらいところ。
 
この本の内容は、著者自身も述べているとおり、目新しいことはなにひとつ書かれていない。しかし、読むことで、人がどうしたって無知であることに対して、自他ともに謙虚に、節度のある態度を保つべきであることを自覚させるものである。
したがって、当たり前が過ぎて忘れてしまうことを再認識するための本といえる。
 
終。