いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『人生の土台となる読書』を読み終える

『人生の土台となる読書』(著:pha)を読み終える。
タイトルのとおり、人が生きる上でベースやヒントとなり得る本について、簡潔に、そして非常にわかりやすい言葉づかいで紹介している本。
副題に「ベスト30」とあるけど特になにかがランキングされているわけではなく、紹介するテーマが30個ある、という意味だ。
 
この本の中で紹介されているいくつかの本は、既に読んだことがあるものだ。というか、そのうちの半分くらいは、著者がSNSで感想を述べていたのを参考に買ってみたものだったりする。なにかを「選ぶ」行為が苦手である自分にとって本との出会いも例に漏れず、この本のような優秀なレビューの存在は非常に助かるのだった。
 
自分は、読書が苦手だ。
本が嫌いでまったく読まないというわけではない。むしろ、目に付く書物は片っ端から読み漁りたいくらいに思っている。
でも、小さいころから文章を集中して長時間読むことができず、一冊読み終えるだけでも相当な時間を要する。たぶん、とても体調が良くて毎日欠かさず本を開いたとしても、週に一冊くらいが限界なんじゃないだろうか。一日一冊くらいのペースで読んでみたいのに。
だからだろうか、
読み終わったあと、頭の中が真っ白になって、しばらく茫然としていた
(p.252)
ような読書体験は記憶に無い。一冊を携えている時間が長すぎて、読み終えるころには当初の熱量が空っぽになっているからだろう。そんな自分が、いくつ歳をとっても悔しく、恨めしく思ったりもする。
 
だけど、「ゆっくり効く読書」という概念は、大いに共感できるものだ。
読書には、2つの種類がある。
「すぐに効く読書」と、
「ゆっくり効く読書」だ。
(p.1)
この本でも紹介されている『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って(著:高村友也)』がそれだ。
この本を読んだのはけっこう前で、当時は内容の隅から隅まで感心したり共感することばかりで、感服しきりだった。でも、それだけじゃなくて、内面のどこか暗く湿った部分にいつまでも居残って、自分の物事に対する考え方や人生観の形成に、ゆっくりジワジワ、そして確実に影響を及ぼしている。冷徹なほどドライなのにこんなにも心をえぐるような文章をつくることができるのか、と思う一方、「必ず死ぬ自分」や「自由な人生」とはどういうものなのか、今一度向き合うことになった一冊だ。
いわば「見るワクチン」である。
 
自分が読書が苦手でも続けようとしているのは、こういった体験をまたしたい、そういう本に出会いたいと思っているからなんだろう。本を開く理由として、我ながら実に健全で純粋だなと思う。
 
でも、そうするとやっぱり、読書数が極端に少ないのだ。数をこなさなければ良質なものに出くわさないのは読書だって同じだろう。
この世には星の数ほど本があるというのに、その星たちと同じように手が届かずただ眺めるだけなのは、歯がゆいな。
 
あと、この本に限ったことではなく、「本を出版する」っていう行為は、けっこう特殊なことだと思っていて、それができる人間も割と特異な存在だと思う。そういうことができる人はスゴイなと慕う一方、そんなことができる偉人の文章を、はたして平々凡々な自分の人生の範とできるのか、どこまで土台のパーツとして組み込むべきなのかという問題が常に付きまとう。あまり影響を受けすぎても火傷するし、下手すると火傷では済まなくなることもあるだろう。
著者はたくさんの本を読んで、様々なストーリーが自立の一助になったようだけど、ダメ人間がどん底から這い上がってきた感じでは決してなく、生来の地頭の良さとバランス感覚が備わっているから人生に活用できるんじゃないか、とも思うのだった。
 
読書と相性が良い種類の人間が、うらやましい。