4年くらい前の自分の声が収録された音声ファイルが見つかった。
定職に就いて働いていた頃、鬱と診断される少し前の頃のものだ。お医者様のような人と面談しているような内容の会話だけど、相手は誰なのか、どんなシチュエーションなのかさっぱりわからない。ましてや、どうしてそんな音声を残していたのかすらまったく記憶にない。
その頃の自分の声は、まるで別人のようだ。しばらく聴いていても、自分の声であることが信じられないくらいに。でも受け答えの内容は自分しか知らないことなので、確かに自身の発声であることがわかる。不思議な感覚だ。
言葉づかいがはっきりしていて、声のトーンもやや高く、ビジネストークっぽいというか、そつがない対話をしている。これにも驚いた。たぶん、今はこんな喋り方できないぞ。当時は否応なしに毎日誰かと顔を合わせ、何かしら話していたからな。今は人とほとんど話をしなくなったから、対話のレベルが大分下がっていることだろう。
がんばっていたんだな。当時の自分。ちゃんと会話できていたぞ。人間ぽく振舞えていたぞ。
この音声ファイルは残しておいても面白いかとも思ったけれど、消すことにした。あまりいい気分がしないからだ。
今まで存在すら忘れていたし、初めから無かったものとする。
なんか泣けてきた。
コミュ障にとって人間との会話は「空気を解析しつつ1般的な人格をエミュレートして場に合わせる」処理なので、差し障りなく会話出来てるように見えても、頭の中では常に「正解の選択肢を☓☓秒以内に選べ。またリスニングは1回しか流しません」をやってるので、精神が通常の3倍で摩耗していくというな
— rei@生きてるだけで疲労困憊発売延期 (@rei10830349) 2020年2月9日
Altanの新譜が出ていたことに今さら気づく。
とりあえず買う。CD買うの久しぶりだ。
僕にとって「家族」という存在が「近すぎる存在」であり、その距離感が僕にとっては、とにかく「近すぎて」居心地が悪くなってしまうのだ。
ええ。よくわかりますとも。
先週に引き続き、下北沢へ向かう。
- 小説の書き方に関して流行り廃りがある、というのはその通りなのだろうけど、それがカッコいいとかダサいと言えるのがすごい
- 小説とエッセイの境界は曖昧としながらも、「それっぽい」という文章は確かにあるようだ
- 「自分の事を書き出して固有名詞を変えてやれば小説になる」
- 「他作から枠組みを拝借する」「一番売れているものを真似する」。これらは結構やってきたことだけど、経験上ダメな場合が多いな。なぜだろう
- "チエン"という単語がサラッと出てきたけど、"地縁"であっている? それとも"支援"?
- 書くことを続けられるメソッドを見つける。人生は長い
- 時代は農業
頭良くなりたい。