いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

2021/01/05 (火) 好きじゃなかった/段落論

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深夜、なんとなくお腹が空いたので、味噌汁を作る。
 
気温はむしろ高めなのに、室温はなぜかいつもより低い朝。
起き抜けから頭痛がある。昨日久々にサイクリングしたからだろうか。
昨晩水筒に白湯を用意し忘れたため、朝一で薬缶を火にかける。
 
睡眠ログにノンレム睡眠が一切記録されていない。どういうことだろう。
 

いいね。どんどん"不要不急"になってくれ。
 
正月用に買った日本酒、結局ほとんど手を付けていない。昨年あんなに飲んだハンドドリップのコーヒーも、年明けからまだ2回しか淹れていない。
両方とも好きだと思っていたもの。でも実は、ストレスを嗜好品にぶつけていただけだったのかもしれない。
自分が「好きなもの」って、本当はほぼ無いのかもしれない。
 
ウーバー配達するために準備していたけど、眩暈が出てきているし、本を読みたい欲があるから、控えようかな。
 
白湯を飲むと、気分が朗らかになると同時にすべてがどうでもよくなる。
 
コーヒーを淹れる。
 
何もせず、インターネットを眺める。
YouTubeを観る。先月あたりからなんとなく避けていたけど、最近また観るようになった。時間泥棒。
 
夕飯は、ウーバーイーツでピザを注文。クーポンを利用する。日本酒のお供とする。
 
何もしなかった。焦らなくてはならないのだろうけど、何のために焦るのかがわからないので、本腰にならない。
悪いことなのだろうけど、生きやすく生きているのに悪い理由がイマイチ思いつかない。
何に焦らなくてはいけないのだろう。
結局これも、実害を被らないとわからないのだろうな。その時には、もう挽回もできないのだろうけど。
 
「段落論 日本語の「わかりやすさ」の決め手」(著:石黒 圭)を読み終える。
毎日パソコンやスマホで日記を付けたり、今まさにこうやって読書感想文を書いてみたりと、会社を辞めてからというもの「文章を考えて書く」という機会が圧倒的に増えた。小学生のころ、作文が大嫌いで未提出が多かった自分にとって、この現状は信じ難い。
作文が嫌いな大きな理由は書きたくもないのに書かされることなのだけど、もうひとつ、書き方を教えないくせに「文章を作れ」と指示される理不尽さもある。読書感想文が典型だ。あんなものがあるから作文だけでなく、読書も嫌いになるのだ。
しかし、今になってみればなぜ学校で作文法を具体的に教えないのか解る気がする。
正解がないのだ。
星の数ほどある本。適当な数冊を読んでみるだけでもわかるけど、基本中の基本となるフォーマットはあっても、文の作法についてはある程度作者の裁量、言わばセンスなのだ。これが論文の書き方とかならまだ定型的に教示できるだろうけど、小学校ではそうもいかない。
この点について本書でも触れている。段落ひとつ取り扱ってみても、日本では昔からの風習やマナー的なものはあっても、キッチリ決まり事として定まっていたわけではなかったらしい。我が国らしいな。
英語圏の発想である「パラグラフ・ライティング」であれば、ひとつのまとまりとしての段落という意味では理解しやすい。それこそ論文的な技法である。でも、日本語として文章を組み立てる場合は、パラグラフ・ライティングは必ずしも自然な印象の文にはならない。日本語の段落は読み手主観、読みやすさ重視だからだ、という。
そして、日本語で段落を作る場合、文章を括るだけではなく様々な用途で扱われており複雑である点も挙げている。
ストーリーの切れ目に差し入れるほか、次の展開へ繋げるための段落、入れ子のような階層を成して整理しやすくする段落など、一口に段落といっても用途が多数ある。これらを理解しやすくするための例文を交えて示されると、「ああ、確かにそうなるよな」と思わされる。とはいえ、この"確かに"と思えるのはある程度文章に触れて馴染んだ今だからであって、小学生にこの諸々を伝えるには、よほどの読書好きでもない限り難儀な気がするのだった。
しかし、それは自分が小学生の頃の話であって、現代であればまた異なるのかもしれない。
今は、手元にスマートフォンがある。小学生だって持っている。紙の本でなくても文章に触れる機会という観点では、それがない時代と比べれば格段に増えているに違いないのだ。
段落は進化していると著者は言う。
とにかく紙面いっぱいに文字が埋め尽くされる新聞のような「黒地に白」から、文と文の間の余白すら文章表現として扱う現代的な「白地に黒」への移り変わり。メール、SNS、Web小説、ひいてはインターネットが、日本語の表現技法に新風をもたらし普及していること。現代では、数多のシステムを扱う人それぞれが、意識的にしろ無意識的にしろ何らかの形で文章をわかりやすくするために段落に相当する手法を取り入れていることを挙げている。
ここでもやっぱり、「使う人それぞれ」なのだ。
現に、自分がここに打ち込んでいる文章においても、伝統的な「冒頭一字下げ」を用いた段落にはしていない。これは、フォントに起因している。
紙面上に等幅で印刷されるならともかく、ブラウザ上でブログ形式で見られる前提であれば、大抵は文字幅が異なるプロポーショナルフォントで表記されるはずだ。そうなると、冒頭一字下げを行うと妙に中途半端な下げ幅になってしまい、ダサい。だから行頭の字下げは意図的に行っていない。こういう意識を持つのが、電子媒体ならではの現象だと思う。
文章のわかりやすさは、読み手の主観が大いに作用する。何をもって「わかりやすい」とするのか。
文章の構成による読みやすさよりも、実は「ぱっと見」とか「見た目」でいかに「わかりやすそう」に表記するかが鍵なのではないかと思ってしまった。
とりあえず、一行空白による行間をもっと増やそうかな。