いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!」を読み終える

「「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!」(著:栗本斉)を読み終える。
シティポップが隆盛していたころの世代ではないのだけど、音楽に興味を持つようになった幼い自分の傍には、荒井由実大滝詠一山下達郎竹内まりやのソフトがあった。親がカセットにダビングしていたのを好き勝手に聴いていた記憶がある。
この書籍のカバー装画のような、鈴木英人の原色が目に飛び込んでくるポップなグラフィックは、見るとどうしても「そのころ」の音楽を連想してしまう。
 
だからといって、特別好んで聴いていたわけではなかった。昨年秋ごろ、YouTubeでとあるアーティストの楽曲を知った流れでシティポップを聴くようになり、半年以上経つ今も熱が醒めないので、なにか読み物でも読んでみるかとインターネットで検索を掛けたところ見つかったのが、本書だった。
 
著者が厳選したアルバム100枚を、1枚ずつ見開き1ページでレビューする本である。
読んでみて興味を持ったアルバムに付箋を貼っておき、あとでSpotifyで検索をかけて聴いてみる、ということをしながら読み進めた。
 
いくつか思うことはあるけど、一通り読んでみて気になったのは、1990年前後の空白期間だ。
この書籍は、100枚を「黎明期」「最盛期」「再興期」と、3パートに分けている。SUGAR BABEで始まる1975年から、黎明期と最盛期の両者でラップしながら群雄割拠のごとく絶え間なく紹介され、1988年でいったんバツンと途切れる。そして、1991年の今井美樹から再興期となる。
そこに何が当てはまってくるのかといえば、やっぱりバブル崩壊だろう。バブルがはじけるとともに、シティポップがそうであるがための都会の洗練さやアダルティな人間模様などのイメージも、一緒に吹き飛んでしまったのだろうか。
 
90年代以降の、最盛期の独自解釈や次世代と称するシティポップも、たしかにそれはそれで聴いていられるのだけど、ギラついたたぎるような熱量を感じにくい。
ソフトがアナログレコードからCDに変遷した影響もあるのだろうか。そこでも90年を境に、音が密集して一塊になったような密度感から、密集はしているけど暑苦しくない、落ち着いた冷涼感みたいなもの得ている。
不思議なもので、音としてはより洗練されているはずのデジタルソースでは再生できないものを、70、80年代のシティポップにおいては獲得しているように思う。その正体はよくわからない。
 
そも、シティポップの対極となるものはなんだろうか。
これが70年代当時なら、本書にある通り「湿っぽいフォークや歌謡曲(p.5)」からの脱却、と捉えられる。しかし現代は、むしろソリッドでスタイリッシュな楽曲がサブスクリプションサービス内に溢れている。何を聴いてもアーバンで、牧歌的なフォークソングを探すほうが難しい。
であれば、現代の楽曲はたいていシティポップなのか?
 
そこは、70年、80年代の空気感を知っていないと推し量れないし、解ることは少ないのかもしれない。ただ、「シティポップ」とされるものは特殊な位置付けなのだということがわかったし、今は再現不可能なジャンルなんじゃないか、と、これを書き込んでいるときに手元に届いた山下達郎の新譜をかけ流しながら思うのだった。
 
終。