いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「人は2000連休を与えられるとどうなるのか?」を読み終える

「人は2000連休を与えられるとどうなるのか?」(著:上田啓太)を読み終える。
「連休初日と2,000日後で生活がどう変わって、自分はどうなったか」という部分の心理描写のようなものは、ほぼ無い。とりあえず生きていけるだけの環境と、食い扶持がある。その上で、2,000日間で著者自身が何をどう感じ、考えたかを書き寄せた書籍である。
 
特徴的なのは、同居人がいたことだ。著者は一人暮らしをしていたわけではない。
その点、いわゆる「気付き」が外部からもたらされることが多かった印象。同居人との不思議な関係も、肩肘を張らない文体で描かれていて面白い。
 
自己とは何か? 記憶とは何か? 身体とは何か? そうしたことが気になりはじめている。
(p.90)
まあ、そうなるよな。関わる世界が狭まれば、自分に意識が向くのは必然というか、めずらしいことではない。
しかし、すごいのは、そこに意識が到達するまでに、自分自身の「記憶のデータベース」を作成してしまったところだ。体験したコンテンツ、住まい、人間関係、はたまた当時の感情まで、可能な限り外部記憶化したらしい。
「自分の人生を輪切りにした(p.68)」という。恐ろしくてできない。それをすることによって何が起こるかわからない。平静を保っていられるだろうか。気が狂ってしまう気がする。
ただ、興味はある。これをしないと、いつまで経っても自分の人生に進展がないような気もする。
 
自分も、定職に就かず日銭を稼ぎながら、フワフワした時間を長く過ごしている。この本を読んだ時点では2,000日に到達していないものの、経過するのはまさに時間の問題だと思っている。
著者は、約6年でどうなったかというと特別どうということはなくて、自分自身と他者、ないしは世界に対する知覚が上がったり下がったり、濃くなったり薄くなったりしたらしい。それを平易な言葉で、しかし緻密に叙述されている。
自分は、同じ時間を過ごしても、ここまでストイックに自身を見つめていられるだろうか。
 
自分はここまで、外の世界に対しても自分自身に対しても、中途半端にのんべんだらりとやり過ごしてきたんだな。
何もしてこなかったわけではないけれど、もっとこう、暇人なら暇人らしく、内省に明け暮れる日々を送るべきだったんじゃないか。そんな気がしてくる。
ただ、これから先、2,000日経過しようとも、進んで自己の深掘りをするようなことはしないだろう。「何を今更」という感じもするし、あまり脳によろしくなさそうだ、と、この本を読み終わって思うのだった。
 
終。