いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『読んでいない本について堂々と語る方法』を読み終える

『読んでいない本について堂々と語る方法』(著:ピエール・バイヤール/訳:大浦康介)を読み終える。
本書のタイトルに「……いや、読めよ」とツッコミを入れつつ開いた本。
 
タイトルがすでに謎というか、「そんなことをする必要があるのか?」という第一印象だった。読んでみると、ああ、なるほどそうか、と。そうなる状況としては、まあわかる。
人間の知性や知識の曖昧さのなかにうまく溶けこむことを技術として確立して、それを是とすることの心構えを語っているのだという理解。
 
本書をつうじてたしかに思い浮かんだのは、自分が学生時代の、学校での語学に関する授業である。
教科書に書かれている文章を声に出して読む、音読するという行為は、小学校ではさも当たり前のように行われていたけど、自分はかなり苦手だった。アレ、書かれていることを正確に読み発声するという一連の動作にリソースを割かれて、読んでいる内容が頭に微塵も入ってこないんだよな。
たぶん小学校高学年か中学に上がったころ、ゲームじみたことをやらされたのはトラウマとしていつまでも残っている。自分の番が来たらその場で起立し、書かれている文章を読み間違えないよう音読し、間違えたらその時点で音読終了、着席。続いて隣の席の生徒が起立、間違えたところから続きを読み上げ、つっかえたらまた隣の人へ、なんてことを授業の一環でやった。つぶさに読むことに必死でそこに書かれていることなんてもはやどうでもいいし、そんなことよりも運が悪ければたった数行、数文字で着席させられる羞恥ときたらない。これで文字を読むことに対する恐怖心を植えつけられ、一字一句正確な読解をしなければならないという強迫観念として、今現在でもそれを引き摺っているのは間違いない。本当に害悪としか言いようのないものだった。
 
教科書を読まされるでもなく、ましてや義務でもなく、単なる趣味として本を読むようになっても、とにかく紙の束にインクの染みがあれば目をとおしておかないと気が済まないのは、いつまで経っても直らない。その点、一冊の本に書かれていることをどれだけ正確に理解しているかよりも、文どうし、ほかの書物どうしの繋がり、総体としてのテクストのほうに重きを置くほうがいいという著者の言説は、心が軽くなると同時に簡単に言ってくれるなとも思う。
 
それはそれとして、いっぽうで理解が難しい部分もある。著者の立案する「内なる図書館」の親和性は、どこで手に入れるのか。それは結局のところ、うわさ話や誰かの書評でもなく、自分で実物の本を開き読み解いて体に馴染ませていかなければ育まれないし、そもそもどういったものが親和するのかもわからないのでは。
個々のヴァーチャルな世界に各々存在すると見立てた本や図書館は、概念として理解できても、その根源と維持はリアルベースの本であるように思う。そうであってもなくても、ある書物を誰かと共有しようとすれば、そこで話すことは当の本の中身ではなく各々の記録するヴァーチャルな書物に基づいているのだから、そんなことは重要じゃないんだ、ということだろう。
 
あと、これは著者も訳者もそうなのだけど、「私は熱心な読書家ではない」みたいなことをあえて語る人間の「流し読み」は、おそらく自分のそれとは異なるように思う。彼らにとっては、仔細には読みこまない、ざっと読む、みたいなニュアンスであるものが、自分にしてみれば一字一句、眼光紙背に徹す! くらいのことを高速処理している芸当を指すだろうことは、容易に想像できる。読んでるヤツのレベルが違う、というヤツだ。坦懐な物言いに思えて、どこかこの埋められない「人物の性能差」が背後にあるような気がするのは、教養人の器足り得ないザコキャラの宿命なのか。
なんせ、読んでいない本について堂々と語らなければならない空間に居合わせたことがないし。なんなら堂々と「読んだことないんだよねー」と言っちゃうし。
 
読書という習慣のけっこうなタブーにサラリと踏み入ったり、あけすけに心情を吐露したりと、一見して刺激の強い本書は、しかし「本を読まない人間」を擁護することはあっても、「読書をしない人間」を正当化するものではないというところがミソだと感じる。本を読むことによってかえって読者自身の害になることもあるとしつつ、読むなとは言わない。自身の創造力を発揮できる余力を持たせた読みかたをするべきなのだ、と述べているのは、共感するところである。とはいえ、それができるのは、あくまでもそこに書かれている文章を正確に読む能力を一定以上備えていることが前提であることは言を俟たない。
 
終。