『普通という異常 健常発達という病』(著:兼本浩祐)を読み終える。
本のタイトルからして哲学的な話かな、と思って開いたら、やっぱり哲学の話だった。
正直、『はじめに』に書かれていることだけ読んでおけば十分だ。本文は蛇足。
筆者の頭の中で考えていることを訳さずそのまま文字に起こしたような感じで、読む側が筆者の採りあげる哲学や精神病理、ゴシップとその一般的な認識を理解していることが前提の文章であり、決して万人向けとはいえないつくり。いろんな文献や経験から話題をたぐり寄せては取っ散らかして、それに対する自身の考察をひけらかすだけで、『普通という異常』に対してなにを述べたいのか、この本を読む人間をどこに連れていきたいのかがいつまで経っても見えてこない。
昨今の「こういう考えかたもあるんだよ」的な本にしては不親切。国外の出版物の古い日本語訳の本を読んでいる気分だった。久々にこういった本と出会った気がする。
後書きの最後のほうで
苦しいからといってそれは必ずしも病であるとは限らないのは間違いないと思われますが、誰にとっても苦しくないことがらはそれがどのようなものであれ、病ではないことも確かでしょう。
と出てきたときには、「なに言ってんだ?」と口からこぼれそうになった。
定型発達をあえて『健常発達』という言葉で置き換えているのもとりわけ必要とは思えず、単に自身の哲学の世界とマッチしないためのように思えてならない。
一定の特性を持った脳のあり方に関して割り当てられた名称
であり、一般的に用いられるような病気ではないと初めにはっきり述べているのは、実情がどうであれ認識としてはその通りだなと思った。以前読んだ本で取り上げられていた、脳の特性のグラデーションの話がしっくりくる。その濃度の差と取り巻く環境により、その人が生存するにあたって生きづらさひいては苦しみの程度が決まり、当人が堪えかねないとなると"病"とされる。それを前にすれば、定型か非定型かの分類はあまり用を成していないのかとすら思えてくる。
さて、じゃあ、とりもなおさず、定型発達の特性の人だって度が過ぎれば「病的だ」と捉えたところで、そこにどんな意味があるのか。臨床の現場ではどのように考えられていて、どうしてそれが"異常"で、多分にASDの色に寄っていると自認する自分はなにをすべきなのか。
頭でっかちにならずに実務面に落としこんでほしかった、そこを読みたかったというのが感想だ。
終。
