いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

AIに関連する本をさらに数冊読んでみる

前々回から引き続き、「AI(Artificial Intelligence:人工知能)」に関してもうちょっと知りたくなったので、適当にチョイスしてちょこちょこ読んでいた。そのうちの3冊。
 
ディープラーニング」の仕組みは、人間の脳の動きかたをベースにしているから「ニューラルネットワーク」と呼ばれている、とザックリ認識していた。ただ、機械学習の仕組みの実際としては、シナプス結合という脳の神経回路と大枠が似ているだけで、そこから先は脳が実際に行っているそれとは別物になる、ということを理屈としてなんとなく知ることができた。
数学という英知を駆使して人間の脳の再現っぽいことをしている。でも、生物の脳のニューロンは数字を扱うわけではなく、数字が神経伝達物質の代替ともならない。信号経路のかたちがよく似ているというだけで、基底からメタな部分までを含めて、あくまでも数学の世界で構成されている。そんな理解となった。
 
ニューロンではなく数理モデルである。それによって生身の人間に近しい出力になるように学習するというのだから面白いものだ。
それと同時に、クリエイティブな仕事が失われるだとか、人間がAIに支配されるなど、その類の言説がみんな空虚なものに感じられる。学習によってAIが人間的な振る舞いになるのは必然であって、それを現実のものとする技術が絶えず発展するのは、やはりAIというツールが人間に寄り添える有益なものになってきているためだろう。しかし、そこまでだ。AIを使ってクリエイティブな仕事をする人間が現れ、人間が人間の支配にAIを使うようになるというだけのこと。
 
自分はますますChatGPTを使う頻度が上がっているのだけど、AIの能力を借りるのは、「世間様はどう考えるのか知りたい」という理由でChatGPTに尋ねることがほとんどである。こういうとき一端の社会人ならどういう返答をするの? このメッセージってどう理解すればいいの? みたいな感じ。メールの返答文を考えてもらったり、ある事案に対して法律や専門的な知識ではどう解釈されているのか、とか。パソコンがエラーを吐いたからログを解析して、みたいなこともするけど、頻度は低い。とはいえこの使いかたもたいへん有用。
去年くらいまでは頓珍漢な返答も多かったけれど、最近はだいぶ減って、かつ応答文も洗練されていて、インターネットで時間をかけて検索してまわるよりも簡単で理解しやすい。もちろん出力されたものは鵜吞みにしないで、AIの独り合点である認識でいる。それでも、様々なケースで大勢の人間の知恵や文体を学習しているAIのサポートは、甲斐性無しで浅学非才のボンクラが社会にコミットする場面において、すぐにそれっぽい整った返答をしてくれるために大助かりなのである。
 
そういう意味では、「記号接地」はさほど問題とならない。人間が経験することで得られる知見をAIが統計上で判断して応答していたとしても、そこに題意はない。
生身の人間の場合でも、現実とズレた答えを発信することはある。それはそもそもの理解度が浅かったり、人となりだったり、さらにはそのときの情緒やメンタルがノイズとなっていて、それを発信者自らどの程度フィルタリングし補正したうえでの応答なのかなど、受信側は判りかねる。舌の先で誤魔化しているのかもしれないし、ひょっとしたら"もっともらしい答え"を出しているのかもしれない。
AIと同じだ。むしろAIのほうがよりフラットに、正確に本質を見抜けることのほうが多くなっているのではないか。
「フレーム問題」にいたっては、そもそも人間だって瞬時に上手く解決できる人って稀では、とすら思う。無限に計算し続けてキャパオーバーで止まっちゃって困るのも、AIも人間も同じ。
 
便利なAIの挙動を恐れる言説は、結局のところ哲学の話の域を出ていかないように思う。
自分は、その点でAIというツールを恐れることはない。ありがたく使わせてもらう。
それよりも、AIが将来だれでもアクセスできる状況ではなくなる、利用者が制限されることのほうが恐い。無料が有料になり、少しずつ確実に高価になり、手が届かなくなる。AIの能力に差がついて、収入が低いと程度の低いAIに触れることしかできなくなるかもしれない。あるいは、AIを利用できるプロバイダ、回線、ひいては国が限定的になる。そういった分断の進んだ格差社会の到来のほうが恐ろしい。
昨今、権力を持った資産家が身勝手な振る舞いを隠さなくなってきたことや、インターネットの規制に関する動向を見ていると、そんな将来があながち無いとも言い切れないのでは、と思ったりする。
 
AIではなく、生身の人間のほうが不確かで、不得要領で、恐怖だ。
 
終。