いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「隠居生活10年目 不安は9割捨てました」を読み終える

「隠居生活10年目 不安は9割捨てました」(著:大原扁理)を読み終える。
著者の刊行した本はたいてい手に取っていたはずだけど、この本はなぜか見落としていた。最近気がつき、発売から一年越しで入手。
 
不安だと感じる際の感情を掘り下げ、その正体を探り、各々どのように対処するかを、口語体寄りの軽い文体で綴られている本。
「たしかにたしかに」とうなずきながら読み進めた。
「好きなように生きる」とは、もっと広い意味があって、「そこまで好きなことはとくにないので、このままで満足」という態度も含むと思うんです。
(p.84)
このあたりの言及や、最後のほうで語っている"自己肯定感"の捉え方など、著者ならではだなと思う。
 
読み終えたうえで、自分にはこの本にあるような「不安」はあるかといえば、そうでもないことに気がついた。
まったく無いわけではない。「お金が思うように稼げなくてそのうち貯金が尽きる」などという俗っぽい不安は、無職となってからは今まで常に付きまとわれている。ただ、自分の日記を読み返してみても「不安」というワードはほとんど出てこない。
 
自分の場合、不安よりも「悲しみ」のほうに身体を支配されている。意味もなく無尽蔵に湧き出る悲しみは、売るほどある。これを投薬でぼやかしながら、ただなんとなくボンヤリ生きている。今もこれからも、そんな感じなのだろう。
もしかしたら、そのせいで本来感じるべき不安もうやむやにされているのかもしれない。抱えているものが異なっているのだ。納豆菌が支配していてカビ菌の入り込む余地がないから納豆がカビないように。
見方によっては、9割とまではいかないだろうけど、不安とは奇しくもうまい具合に付きあえているといえる。
 
凡人未満の自分には、著者のようなコミュニケーションスキルや多彩な才能は持ち合わせていない。むしろ、もっと生に対して不安にならなければならない気がしている。
なんにせよまずは、凡人未満なりの生活基盤を確立させなければ……。
 
終。