いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

「安楽死のできる国」を読み終える

安楽死のできる国」(著:三井美奈)を読み終える。
安楽死に積極的な国オランダの、法整備を中心とする死に対する料理の仕方をレポートされたもの。
「積極的」と表現したけれど、正確には「人の死に積極的に向き合う」となる。オランダはその国風もあって、蓋をされたりタブー視されやすい人の死に関して、しっかり問題として汲み上げてきた歴史があるのだということを簡潔にまとめている本。
 
「安らかに死にたいと考える人が、平和に死ねる権利を確立すること」
(P.85)
結局、自身の死に求めるのはここなんだよな、と思った。
それは、別にこの書籍でも紹介されている障害者や高齢者のような、死が目前まで迫っているとか、生きていても尊厳を保つことができず苦しい状況の人たちだけの話ではない。だれだって、他人に迷惑をかけず穏やかに死にたいと思うし、そう思うのが自然なはずだ。
そのために、
まるで、ピザのトッピングを選ぶような死の選択肢
(P.18)
を可能にする世の中にしていこうとするのは、大歓迎である。
 
オランダでももちろん、安楽死反対派もいるにはいる。でも、少数派らしい。
「痴呆患者に生きる価値はないと考える国民の国。高齢者が周囲に迷惑をかけることができなくなる国。(こんな国を想像すると)恐ろしい光景だ」
(P.100)
そんなことはない。死にたいと思ったときに死ねず、なにがなんでも生き続けねばらないとされるほうが恐ろしい。
意識しておきたい点として、迷惑をかけたくないから死ぬことと、迷惑をかけられないことは別の問題だ。生きる価値がないと思える自分と、痴呆の人に対してそう考える国民を、ごっちゃにしてはならない。
 
「私は、いまも安楽死には反対ですよ。『死にたい』という患者の叫びは、『私にかまってくれ。助けてくれ』というサインでもあるのです」
(P.116)
こういう言葉の深読みみたいなものもよく見かけるけど、安楽死または尊厳死の文脈においては、文言本来の持つ意味以外に何かあるとも思えない。
「死にたい」のは死にたいからで、「生きなければならない」という苦痛に苛まれているからであって、そこから逃れるための手助けをしてほしいのだ。思うように生活できず、あるいは生活そのものが懲り懲りだったりして、自分自身にとってただただ苦痛でしかない"生"から脱出したいから死にたいのだ。
 
たしかに、死にたいと思った先に別の道を示されて、そちらに進んでみたら「生きたい」になったとしたら、それはそれでいいのだろう。そうだとしても、生と同じく「死は自分のもの」と考えるからには、永遠の闇にたどり着ける方角も示されているほうが安心する。
 
しかし現状、安楽死をするにはなんらかの「患者」になって、医師による判断が必須となっている。本書は、この点に紙幅を割いている印象だ。
安楽死は、実際には医師の決定に委ねられている
(P.89)
やっぱり、世の中がどんなにシステマチックになっていったとしても、自分が死のうとなったら自分以外の誰かの手を借りたり、承認を受ける必要があるのだろうか。
このあたりの事情、流行りのAIでなんとかならないもんかな。
 
終。