いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2020/09/29 (火) 生きづらさ、逝きづらさ

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夜。歌を歌っていたら2時半。
やっぱり深夜のほうが元気。でも、以前より高音が出ない。声量もない。

しばらくしたら無性に馬鹿らしくなってくる。
寝よう。

朝。自然と目は覚めたけど、身体が重すぎる。

自身の生きづらさを相談する行為に何の意味があるのかよくわからない。
つらさは自分のものなのに、それを他所に訴えたところで何も変わらない。少なくとも経験上はそうだ。
なんか、気持ち悪いな。
これも、相容れない"向こう側の人たち"の論理だからかな。生きることで解決させようとする。生を見出そうとすることを当たり前とする。そうじゃないことがわからない人たち。
ありえないけど、死んだ人に意見を聞いてみて死者からの返答があるのだとしたら、まったく異なるのだろうな。未来永劫理解することはできないのだろうけど、死にもちゃんとストーリーがあって、当たり前があるのだろう。
嫌だな。生きるの。
生きるのが嫌というより、この世に生まれ出でることがめでたくて、生き続けることが貴ばれて、問答無用で死を害だとする風潮が嫌だ。何をするにも何を考えるにも、生のストーリーによって形作られているのが窮屈で、生きづらい。
こんなことを誰かに話したところで、どうしようもないのだ。そりゃそうだ。聞かされたほうも困ってしまう。「心配」を取り繕って"向こう側の人たち"の論理に組み込もうとするか、気持ち悪がられて無視されるか。そんなところだ。この時代、即ひっ捕らえられたり刺されたりしないだけマシなのかもしれないけど。
自分が生きづらいのは、自分という個の抱える問題だ。他者が解決できるのだとしたら、それは別の何かだ。

脳の劣化が進んでいる気がする。

もっと頭がよければ。
もっと考えを巡らすことができれば。もっと強ければ。

いつまで続くのだろう。もう終わりにしたい。

今日は何も口にせずに一日過ごせそうだ。
身体を動かさないと省エネ運転できていいな。ずっとこうでありたい。

何をしても疲れてしまうから。