いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2020/08/08 (土) 禅的生活

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朝。昨日の頭痛は引いた。だけど疲労感は残り続ける。
天気が良すぎるせいだ。晴れ間ばかり。
先月みたいに曇りや雨の日が増えてくれればいいのに。

洗濯機の調子が悪い。
ついこの前はパソコン、その前は冷蔵庫が不調だったばかり。
家電製品はひとつ壊れると他のものも連鎖的に調子が悪くなる気がする。消耗品として割り切るしかないのか。
動かないわけではないから、またこれもだましだまし使っていこう。

禅的生活」(著:玄侑宗久)を読み終える。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

 

AmazonのタイムセールでKindle版が破格の安値だったので買っておいて、チマチマ読んでいた。
禅的思考を実生活にどのように落とし込むか。そのヒントが列挙されている。
この書籍には禅に関する様々なキーワードが出てくる。そのなかでも生活に直結するのは「志」と「方便」だろう。
腹を据えるべき正しい方向性を持ち、そこに上り詰めるということ。解釈としては正しいと思うけど、言うは易く行うは難し、たいていの人間は上手く乗りこなすことができない。だから「悟った人」の言動を借りて、禅のエキスを数滴でも自身に染み渡らせてみようじゃないか。それができたらステキよね? というのが大きな意図としてあるように感じた。

我々の現実生活は、どの一瞬をとってみても様々な、しかし特定の価値観に染められて過ぎてゆく。社会人としては当然のことだし、その価値観もあるいは好き嫌いも、精密であればあるほど役にたったりするわけだ。我々はそれを「方便」と自覚しながら社会生活を送るのだが、ともするとそれが「方便」だということをすぐに忘れる。
(「五、風流に生きる」より)

過激な表現をする人を筆者は「表現しすぎた人」と表現する。
これを昨今のTwitterでよく見かける。「いや、別にそうはならんでしょ」と突っ込んで欲しいのか判断が微妙な、素っ頓狂とも言えなくも無い言葉を世界に発信する人。
「志」を掲げる際、「表現しすぎる」のはマズい。結果自分の首を締めることになると筆者は言う。
ではどうすればいいのか、というのも纏めてある。禅と聞くと厳しくて仰々しいイメージがあるけど、「落とし所を見つけるとなればそうなるよね」という、当たり前というか無難なことが書かれている。
でも、これが常人では難しいからこそ禅が道標として機能しているのかもしれない。
人類、進化してないんだな。

ひぐらしの声、大きくなったな。

夜。簿記の勉強でもしようと机に向かったところ、思い立ってYouTube米米CLUBの動画を観始めたら23時。
こんなんじゃいけない。