いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2020/03/12 (木) 明るい夜/noteにつける日記

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最近、日記を書き込む量が増えすぎている。
もっと減らさなきゃ。

夜。日付が変わる頃。
昼以降、結局何も食べたくなくて、買い置きしてあったサワークリーム味のポテトチップスをツマミに日本酒を飲むことにした。日本酒は適当に保管してあったから、温度はたぶん"涼冷え"と"冷や"の中間くらいかな。
ポテチみたいな脂っこいものと日本酒って、意外と合うんだよな。

ほろ酔い気分で、なんとなく外へ散歩してみる。
風はあるが、上着がいらない暖かさ。
当然暗いはずの空はほのかに青く明るく、大小の綿雲がはっきり見える。少しだけ欠けた歪なパンケーキのような月が煌々と光って照らしているからだった。
コントラストの夜空を見上げながら、しばらく佇む。寒くはない。たまにはこういうのもいいな。

間違いなく疲れている。
明日は、仕事は休みにしようか。

白湯を飲む。

日記をnoteにつけるようになって、頭の中が楽になったような気がする。
それ以前も、日記自体はつけていた。毎日ではなかったけれど。お高いノートに手書きから始まり、それが面倒くさくなるとパソコンやスマホからEvernoteを利用するようになった。ただ、メモのような走り書きばかりが溜まっている状態だったけれど。
noteにつける日記は、人に読まれることを意識しながら文章を打ち込む。ただし、あくまでも個人の日記の範疇として書き記す。書かれた内容は基本的にすべて自身に向けられていて、自分で反芻するために綴られている。閉じた文だ。エンターテインメント性は皆無。自分には、それはできないから。
でも、それでも頭の中に浮かんだ雑多な言葉を吐き出すのにnoteを使用したのは、良かったのではないか。
投稿しだした初期のnoteの日記を見ると、自分自身が本当に切羽詰まっていて、不安定だったことが文章でわかってしまう。何でこんなことを書いているのかわからない言葉も多々ある。たった3か月前の自分が、よくわからないのだ。
それが、最近は安定してきたのか、意味不明で断片的な言葉を綴ることは減ってきている。他愛もない日常を淡々と記入しているつもりで、現にそうなっていると思う。ゴチャついていた頭の中をなんとか日本語として吐き出すことで、余計な負荷が減っているんじゃないかな。人に読まれるという意識が裏にあると、ある程度は客観的におかしくない文章を組み上げようとするから。
これは良い傾向であると信じたい。

「頭が楽になった」とはいうものの、生活が楽になっているかというと全くそうではない。
心身ともに壊れて仕事を辞め、今は自分ができることで食いつないでいるけれど、現状はその日暮らしと何も変わらないし、何も残せていない。
身体も精神もだんだん老いていくだけであることがわかってしまっている。今すぐ死んでも何ら問題ないこともわかっている。
だけど、あまりそれらにこだわるのもよくない気がしている。その日暮らしでもそれしかできないのであれば仕方がない。この世に何かを残すために生きているわけでもない。老いていくのは諦めるしかないし、「死」を選ぶことが悪いとも思わない。
「生」を意識しないといけない。「生」の世界に住まなければならない。その方が健全であると思うから、そうしているだけだ。

自分には何ができるのだろう。「生きるのがつらい」と感じないように生きるには、どうしたらいいのだろう。
そこに、他者はいないのだ。個としての問題だ。
平穏に生きるには、どうすればいいのだろう。