いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2020/01/31 (金) 疲れてニヤニヤ/雑草で酔う

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疲れていると、顔が自然とニヤついてくる。昔からそうだ。
どういうわけか顔の筋肉が引きつって、口角が上がってくるのだ。意識せずとも自然とそうなる。これが自分の"疲れ顔"なのだろう。
この状態だと、人からよく「何ニンマリしてるの?」といわれてしまう。そのたびに「疲れているとこんな顔になるんです」と言い訳をする。前の職場でもよく指摘された。それで大体納得してもらえるからいいんだけど、事情を知らない人からすれば「こいつ何ニヤニヤしてるんだ?」と訝しんでいたのだろうな。
自覚している場合とそうではない場合がある。人から顔を指摘されて初めて「疲れているんだな」と気づくこともある。かといって、自覚していても疲れている限り元の顔に戻ることはないから、どのみち誰かに突っ込まれるのだけれど。
どうにかして心身ともに休めるしかない。

ウーバー配達、自転車漕いでいる最中にふと悲しみが訪れる。
なんとか無視する。

配達終えたら温泉行こうかとか考えていたけど、やめた。行く気がなくなった。シャワーでいいや。
外で何か活動して帰ってくると、もうその日は外出したくなくなってしまう。まだ冷蔵庫に食料はあるから、買い物もしなくていいか。

『雑草で酔う ~人よりストレスたまりがちな僕が研究した究極のストレス解消法~ (著:青井硝子)』を読み終える。

発売当初は「なんかヤバそうな本がでたな」くらいの感想だった。しかし、すぐに品薄になったのを知り「あ、やっぱりなのか」となぜか安心したのを覚えている。
ズバリ"雑草"という括りの身近な植物たちを、あれやこれやして人間が摂取できる形にして、その効能を実感してみましょう。というのである。
法律に逆うことなく、人体に悪影響もなく、かつ取り込みやすい方法を探求を続けている著者、青井硝子氏。只者でないことはすぐにわかる。
ここでいう"酔う"とは、普段と感覚が違うという意味。摂取したその諸状態を、五感がどう変化したかそれぞれ記されている。この道に縁がなく、市販の紙煙草を吸ったことがある程度、しかもそれでも体の変化には特に気付かなかったという鈍感な自分にとって、野生の、または花屋で売られているような植物で幻聴やら味覚の変化やらが味わえてしまうのは、異界をのぞくようで興味をひかれた。

一植物に一音楽がある
(p.67)

何とも詩的で素敵。どんな音楽を聴かせてくれるのだろう。
とはいえ、なぜこのような"酔う"行為をするのかというと、副題にも触れている通りストレスの解消になるからだという。感覚を半ば強制的に変移させることがストレス解消になることに気がついた著者も、自身の社会における「生きづらさ」と対峙していて、そこが発端となって始まった研究なのだ。この本には、現代社会で生きづらさを感じている人間がどうしたらうまく"やっていく"ことができるのかについても綴られている。
著者は、人間にはマルチタスクが得意な人とシングルタスクに秀でている人の2種類に分類できて、それぞれ「副視点者」「単視点者」と名付けている。そして、それは個々人に形成されて動かせないものだという。
著者自身は単視点者だとしたうえで、

副視点者が発達するためには、まず己自身を心の中から見つけ出さなければならない。
単視点者が己をまず持っていて、他者を、社会を理解していく過程とはまるで逆というのがとても面白い。彼ら副視点者は社会をまず理解していて、己を探さねばならないのだ。
(p.122)

と分析している。これ、何でもないようだけれど、ここまではっきり言語化しているのは意外とないんじゃないかな。
この本には"発達"という言葉が頻繁に出てくる。これをはじめ"成長"と同義で読んでいたが、違っていた。これもまた著者の目による人間という生き物の捉え方からくる表現なのだろうな、というのがわかって面白い。
自分のパターンを把握しよう。なんか生きにくかったら草で酔ってみよう。それは生きていくための一助となるから。そんなメッセージのこもった一冊だ。
ただ、随所に出てくるスピリチュアルな文言に関しては、どうしても受け付けなかった。胡散臭さが否めない。実際にそれがストレス解消になったのだろうし、目に見えない世界を言葉で表現するのだから仕方のないことかもしれないけれど。せっかくやってみたくなっても、そっち方面の言葉が出ると酔う前から酔いが醒めてしまう。そこは残念でならない。
興味はある。間違いなく。でもやらないよ。やっぱり怖いものね。