いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2020/01/02 (木) 徒然

f:id:morning-sneeze:20201216164634j:plain

ゴミみたいな感情に苦しめられる。

死に場所は決まっている。というより、印象的で忘れられない場所がある。
地名は覚えていない。昔、鉄道を使って旅をしていた頃に偶然訪れた場所だ。南の暖かい地方だったのは間違いない。
駅に降り立ったそこは、周りに民家がなく、荒野と畑が広がっており、海にほど近い場所。人気がなく、木が数本立っている程度の何もない場所。駅舎もない無人駅があるだけ。
当時は、日本にもこんな場所あるんだな、という程度の感想を持っただけだった。しかしその後、ふとした瞬間にあの場所を思い出すようになった。そしていつしか、自分が死ぬには理想の場所として認識するようになった。
死にたくなったら、あそこに行こう。行けない場所じゃない。
最近、フラッと行ってみたらどうなるのか試したくなっている。
やっぱり死にたいなと思うのか。そうではなくて、また認識がアップデートされ変容するのか。死ぬとしたら、首つりになるのかな。辺りに何もないから。でも、なんとなくそれも嫌だ。

例えば、車やバイクを使って日本一周の旅でもしてみる。そして、旅をする最中に「ここが死に場所だ」という場所を見つけたら、そこで死ねるのだろうか。「いや、ここでもいいけど、もうちょっといいところがあるんじゃないか」とか思ったりするのだろうか。それとも、とりあえず一周してみて候補をいくつか選出して、そこから最終的に一か所に絞るのだろうか。
移動はどうするのか。車なら車中泊か。バイクならキャンプ道具を積んでいくのか。何だか面倒くさい。もうちょっとさらっとできないものか。

みんな、死から逃れたいと思いながら生きているのか。
そんなことはない気がする。

結局、この身一つで移動しながらその日暮らしをするなんて、自分にはできないのだ。
現実的に考えて、何かしらの社会の恩恵を受けることになるだろう。
もっと言えば、金で解決することになるのだろう。金さえあれば大抵のことはできる。旅をするのもその一つに過ぎない。金があって成り立つ行為だ。
だから、いつしか旅をしなくなったのだ。意味がないなと思うようになったから。生活の一部にもならないなとわかってから、金をかけてまで外に出なくなった。何も生み出さないから。
金にならないのなら、コンテンツにならないのなら、旅をするのも時間の無駄だと感じるようになっている。

箱根駅伝を観る。
みんな若いな、キラキラしている、という感想しかない。
しなやかで健康的な肉体を持つ人間たちが走り続ける。それを応援する人たち。
うん。この無味乾燥な感じ。スポーツだ。

何も見えない。何も見たくない。
制限する自由。ペナルティー。悲しくはない。
情けない。何も言えない。
言葉が見つからない。
辛い理由がわからない。嘘だ。受け止められなくて辛いんだ。
悩むことに意味はないのだ。悩む理由がない。その必要がない。
何をしたらよいのかわからない。謝って済むならそうしたい。
そうはならない。

資本主義社会に生きているが、一般的な資本主義者の振る舞いをすることはしないほうがよいのかもしれない。