いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2019/12/27 (金) 「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」を読み返す

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目覚ましとして毎朝鳴らしている携帯のアラームを聞き逃す。
やはり身体が慣れてきたか。

熱はない。いつもの低すぎるくらいの平熱だ。
しかし、肝心の喉は相変わらず痛い。これは一向に治る気配を見せない。
タミフルを飲み、予定通り病院へ行くことにする。

朝飯を食べようとマスクを外す代わりに眼鏡を置く。意味不明である。寝ぼけているようだ。

大人なセリフだな。お金がある人のそれともいえる。

詩ができる。

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病院に到着。診療開始時刻の15分前だというのに、既に診察が始まっている。
年末だからか?
妙に感じていると、ほぼ定刻に診療開始のアナウンスが流れ、診察室に人が吸い込まれ始める。さっきのは何か事情のある患者だったのかな。

人による。ケースバイケース。
いい言葉だな。

タミフルはそのまま継続。
抗生物質は前回処方分で飲みきり終了。
喉の痛み止めのロキソニンは、今回継続分を処方される。
痰を切る薬を併用することになった。
ロキソニン、長期服用は身体によくないと聞いたことがあるが、医者から処方される分には問題ないようだ。

「自転車の前に子供を乗せるのはダメなんだよ。法律違反」
と、隣で得意げに話すおばさん。
うん。
「本当はヘルメットつけなきゃダメなんだよ」
どうも運転する大人に対しての発言のようだ。
うん。
自転車運転の認識なんて、こんなものなのかな。
日本は法治国家なんだって。
よかったよ。法治国家で。

死にたい

なんで何も起こらないの

幅を広げるって、そうせざるを得ないからでしょ。消耗品だから。
手を広げないと、そこで終わっちゃうから。

いつ受け入れられるんだろうか。それとも、延々と心の裏に隠れるようにして残り続け、時々顔を出すのだろうか。
「受け入れる」とはどういったことなのだろうか。
自分を受け入れるとは何だろう。

なんとなくアマゾンプライム会員となる。
プライムビデオで何か観てやろうとするも、これといって観たいものは見当たらない。
これもそのうち気が向いたときにしよう。

昔の自分のメモを読み返す。
勤め人で、鬱病最盛期の頃のものだ。
今読んでも、あまり気分の良いものではない。
時系列が若干怪しい部分もあったが、どうしようもなかったことをどうしようもなかったこととして、誰に宛てるでもなく綴っている。今とそれほど変わらない。そしてその多くは、未だに解決の糸口すらつかめていない。だから嫌な気分になるのだろう。
ひょっとしたら、今noteに載せている文章も、後々読み返したら同じように気分を害するんじゃないかな。

本当に、このまま生きるの?
「今ではいい思い出」なんて、今まで言えたためしがないじゃないの。これを言うために生きるわけじゃないとしても、物語なんてあっても、ただそれだけ。
というか、「過去の出来事を連ねたようなもの」を「物語」と呼ぶの、どうにも嫌悪感しか湧いてこない。

なんでみんな生きていられるの? 本当にすごいよ。
他人に見せないだけで、実は裏では耐え難い、やってられないようなことを辛抱しながら生きているの?
それとも、死んだら周りに迷惑がかかるから死ねない、というだけ? だとしたら、世の人は聖人君子だらけで恐れ多すぎる。

 結局、社会というものは、その時代の平均的な暮らしをする人間にとって最も効率がいいように作られているものだ。やはり何がしかの職を得て、お金を得て、自分のわからないことに関しては専門家に任せるのが一番効率がいいように、社会のシステムができている。
 人間的な性格や特性、能力や思考傾向に関しても、まったく同じことが言える。
 たとえばごく普通の人間関係の構築といったことができない人は「社会不適合者」と呼ばれ、生きにくく損しがちな世の中である。しかし、それは文字通り現行の社会に不適合なだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。平均的な人聞が生きやすいように社会というものはできているのだから、僕みたいな自他共に認める社会不適合者が損をするのは当たり前である。ただそれだけのことである。

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って」 高村友也:著 p.149 一部抜粋

やらなければならない。そう。生きる道を見つけなければならない。
時々思い出すこの文章。掴めない霞をギュッと押し固めたような、世界を縮めるような、ドラフターで正確に描きあげた図面のようなこの文章が、浮つく心を静めてくれる。
羅針盤である。

結局、他人任せ。