いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

(noteアーカイブ)2019/12/18 (水) 幸福/死との付き合い方

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詩を書きたいが何も思い浮かばない。

インプットを増やしたい。

ニュースほとんど見なくなったな。

お金を貯めると、幸せになれるんだって。

朝起きた瞬間から、特に泣いてもいないのに泣きはらした後のような虚脱感と喪失感がつきまとう。
昨日の膝の怪我はまだ少し痛みがある。
吐き気がするが、吐くものがない。特に腹も減っていないが、昨日買っておいたパンを食べる。
味はある。
心臓の脈動が速い。
出かけよう。金を稼がなきゃ。

人権派

幸福になるには、金があることが前提なんだって。

幸福になりたいというより、今ある不幸から逃げたい。

どうしても、過去の古い研究結果や偉人の言葉に対してなおざりにしておく傾向がある。
現在進行、あるいは未来の事象、研究、関心を重要視している。
書籍類も、最新の刊行物を読む。古い本を読む場合は、古本屋で立ち読みするか、図書館へ行く。しかし、いずれもほとんどすることはない。

暖かい。本当に12月半ばなのか?

真似ではダメなのか。真似では稼げないのか。
今まで誰かの真似をすることで生きてきたから、こんな状況になったのか。
真似ではない、自発的な行動をしたからこうなったのではないのか。
よくわからない。

この先に何があるんだろう。
もう十分だろう。ここで終わりにしたい。
他人に影響を与えられなければ、生きていても仕方がないんじゃないか。
影響を受けることも与えることも嫌っている。そんなんで、この先に何があるんだろう。
生きなければならないなんて、誰が決めたんだろう。どうして俺は、生きなければならないんだろう。
こうして考えてること自体、生にしがみついている証拠といえる。死とも平等に付き合いたい。でも、死は不可逆で、経験すると元に戻ってこられない。ここが、死を特別なものと見なす理由な気がする。

水曜日の昼、ウーバーが全然鳴らない。早めに切り上げる。
水曜はいつもこんな感じなら、定休日にするか?

死を、生の中で考えているからわからないのではないか。死は生の終了と捉えるならば、それなら「生の終了」と、そう言えばいい。では、「死」と呼ばれるものは何者なのか?
生きている間はとりあえず考えずに、生の終了が間近になったら初めて認識するものなのか。
生きることを「ここで終わり!」と決めたら、終わらせるには死しかないのか。
生きるためにはそのための活動をする。それをしないと、生きられない。
生きたくないな、と思ったら、死しかない。他に選択肢はない。別の生き方と呼ばれるものは意味がないというか、前提が違う。生きることを是とする、「生きるのは当たり前」という前提がある考え方だからだ。そこは関係ない。どんな方法であれ、そもそも「生きたくない」のだ。そうすると、生の終了に行き着く。生の活動を終えることになる。
貯金を食いつぶして生きながらえている現状、少なくとも社会と接点がなく影響も与えていないのなら、自分一人生きることをやめたところで誰かが不利益を被るとは考え辛い。生きることをやめても、それだけだ。他に何も起こらない。

生きることをやめると、死が訪れる。そう信じている。
死に終了はない。少なくとも知る限りは。死んだ者が「やっぱり生きますわ!」と生を再開したという話は聞かない。一度死ぬと、その状態から不変となる。そう信じている。

怖くないな。
知らないだけか。いつもそう。

お金持ちになりたい。